みらっちの読書ブログ

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リアルから学べと教えられる【養老孟司】

 

以前、養老孟司さんの講演を聴きに行ったことがあります。会場に入るときに、会場前の植え込みを覗き込んでいる姿をお見掛けしました。講演が始まって、虫を探されていたのだということを知りました。昆虫が大好きで、虫のいるところ世界中どこへでも出かけていかれるというのはエッセイ等で読んでいましたが、実際にその様子を目撃するとは。思わず、嬉しくなりました。

 

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さて、養老さんと言えば言わずと知れた『バカの壁』の著者。18年ほど前、一大ベストセラーとなりました。流行語大賞になったくらいなので当時は「バカの壁」という言葉を嫌になるくらい聞きましたが、世間では「バカ」という言葉だけがひとり歩きしていたようにも思えます。私自身はこの流行に、どうも、釈然としないままのところがありました。

 

私が法医学・解剖といったことを初めて知ったのは、上野正彦さんの『死体は語る』だったと思います。「解剖して事件を解き明かす」ということがある、ということを知りました。ですから最初は「事件を解決する鍵」「解剖で初めて明らかになる事実」といったことへの興味が強かった気がします。その流れで、養老さんの本も読みました。

 

 

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『バカの壁』が出た時、それまで読んだことのあるものは『涼しい脳味噌』『からだの見方』『唯脳論』など、ご自身で書かれたものだったので「口述筆記」というのは新しい形だなと思ったのを憶えています。私が読んだのは基本的にお仕事である「解剖医学」にまつわるエッセイなどの著書でした。いまでこそ解剖学や法医学、監察医のドラマなどはシーズンに1つくらいやっていますが、昔はそれほど頻繁に目にするものではなかったので、とても興味深く読みました。それが急に口述筆記となり、ちょっと戸惑ったのも事実です。

 

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そんなわけで久しぶりに『バカの壁』を読み直してみました。氏は著書の中で、ヘラクレイトスが言ったように万物は流転し、変わらないものなどなにひとつない、と言っています。目の前に見えていることがすべてではない。目の前に見えることをうのみにしてはならない。客観、などというものも、すべて自分の壁の中の客観で、本当の客観などではない。そういう視点を持つ必要がある。この世界の外に、目を向ける必要がある、と。

 

重ねて、人間は自分の身体を置き去りにして、脳みそだけで生きている(氏は「脳化」と呼びます)、そして自分では知らぬ間に、今日も明日もあさっても、変わらないということを信じてしまっている、それが「壁」だ、と。多面的な見方をする、脳が万能じゃない、ものごとを二元論で考えない、ということは大事なことだ、とおっしゃいます。

 

また、脳内にはy=axという一次方程式があり、aに入る係数は人によって違い、それがマイナスかプラスかゼロかによって、人の行動や感情に違いが出るとのこと。aを決めるのは「その人にとって現実味があるかどうか」ということにで、aがゼロというのは無関心であり、興味も関心もない世界のことはその人にとってないと同じということになります。係数が果てしなく+の人には係数ゼロの人はまるでバカみたいに見える、その逆もしかり。というわけです。

 


氏は、よく、さまざまな著書の中でこう仰います。
 『自分は墨塗教科書で育った世代だ。だから体制を信用しない。戦後は周囲の大人もみんな信用できなかった。神が人間になり、いいことが悪いことになり、わるいことがいいことになった。すべてが一夜にして覆った。信用できたのは、目の前にある「リアル」だけだ』と。「目の前のリアル」とは、氏にとっては「解剖」であったり「昆虫」であったりするわけですが、それは目の前に歴然とある「大自然」そのものでした。そこから導き出されるのは『今の自分をとりまく「世界」は疑いようのないものだが、永遠不変のものなどひとつもない』というもので、氏の様々な著書を貫く姿勢でもあると思います。著書の中には時折極端な言説も見受けられますが、氏が歯に衣を着せず言いたいことを言うのは、この考えが底辺にあるから、だと思います。

 

『バカの壁』では、氏自身が前書きで「この本は私にとって実験なのです」と言っています。口述筆記という手法を取った理由は、筆記者という第三者の「脳」も経由しているし、意見ひとつにしても「壁の中の話」であって、普遍的な学説などというものではないよ、簡単に信用したり鵜呑みにしたりしないで本当かなと思ったら自分で確かめてみてほしい、ということなのだろう、と思いました。

 

安易に「わかりあえる」「絶対の真実がある」と考えることが危険だと言っているだけで、人間はわかりあえない、とは氏は言っていません。ではどうすれば分かり合えるか、というと、係数aに、欲得ではなく「人としてどうか」という基準を入れていくほかないのでは、と氏は言います。そしてその「人としてどうか」は「脳」というヴァーチャルなものではなく「身体」というリアルで獲得するべきものではないか、と。



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最近の「遺言。」や「半分生きて半分死んでる」も読みましたが、「こうすれば、ああなる」の頭の中だけの世界をずっと批判してきたのが養老氏だと思います。「大自然」は思うに任せないもの、人間の予想通りにはいかないもの、でも緻密に精緻に出来上がっている世界です。身体や自然と向き合いながらヴァーチャルではない世界を知ることは、壁を越えるひとつの手段になり得るのだろうと思います。


つい最近、氏が可愛がられていた愛猫の「まる」さんが亡くなられたとのこと(写真を拝見する限り「まる」さん、という佇まい)。ご冥福をお祈りするとともに、まだまだこれからも、「リアルから学べ」と教えていただきたいと思います。