みらっちの読書ブログ

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好奇心を持ち続けること【臨死体験/立花隆】

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こんにちは。

 

先日、立花隆さんが亡くなられました。正確には、4月に亡くなられていたとのこと。

「知の巨人」の不在に寂寥を感じております。

 

 

立花さんの『臨死体験』が今、手元にあります。

亡くなられた、と聞いたとき、この本のことを真っ先に思い出してしまいました。

 

www.kinokuniya.co.jp

 

www.kinokuniya.co.jp

立花さんは、数々のノンフィクションを世に送り出しています。私もいくらかは読みましたが、到底、すべてを追うことはできないくらい、分厚い書籍を次々と発表されていました。立花さんの書籍は分厚い、ということはつまり、なかなかお高いので、若い頃の私は購入するよりも図書館で本を借りて読んでいて、買ったのはこの『臨死体験』くらいです。

 

奥付をみると、初版が1994年とあります。

 

立花さんは、1997年に臓器移植法が施行され脳死問題が世間的に広がりを見せる前夜の1991年にNHKと共著で『脳死』という本を書いています。『臨死体験』では、この本で行った調査にからむ問題において、科学の力がいまだ及ばないことを嘆いている箇所があります。その後、2000年代に、『脳を究める』『脳を鍛える』などの著書を立て続けに上梓されています。脳の研究が急速に進んだこの20年余りで、もしかしたらこの本に出て来る「臨死体験」の例の一部は、脳を研究することで解明されてきた部分があるんじゃないだろうか、と、今、漠然と思っています。

 

立花さんの本はいつも、社会に対する、かなり早いうちからの問題提起であり、世間に広く問題が認識される端緒であった気がします。もともとは、政治的なルポルタージュなどの著作が多く、田中角栄氏を失脚させたと言われる『田中角栄研究』で一躍有名になった立花さんですが、次第に脳や宇宙、ロボット、がんなど、科学的な方面に興味が移っていったようです。どちらかというと「科学的追及」というよりは「研究最前線のルポ」という形の著作が多かったように思います。『宇宙からの帰還』を読んで、宇宙飛行士の野口聡一さんが宇宙飛行士を目指したのは有名な話です。

 

さて、この『臨死体験』は、臨死、ということからして、死に臨んで人間が体験することをひたすら追求した本です。伝承や宗教などとも絡み、ともすればオカルトに傾きがちな分野です。そういった、脳死や臨死、超能力など、科学的に説明のしようのない現象に科学のメスを入れて解明したい、という強い欲求があったようで、オカルト主義者などと非難も浴びながらも「隠されたこと、見えざるものを可視化したい」欲求というのは強かったのではないかと思います。

 

立花隆さんの好奇心、というのは、基本的に科学をよりどころにしながら、常に「人間存在とは何か」や「生とは何か、死とはなにか」そして「脳と心」にあったように思います。この本の最後に立花さんは「自分は死というものに大きな恐怖心を抱いていたが、取材を重ねるうちに(臨死)体験者が異口同音に死ぬのが怖くなくなったというのを聞くうちに、いつの間にか私も死ぬのが怖くなくなってしまった」と記されています。

 

このなかで立花さんは、死後の世界があると考える「現実体験説」と、死後の世界はなく、臨死の体験は脳が見せる死へのプロセスであり、脳の機能が喪失すれば無になって終わるという「脳内現象説」というふたつの仮説を立ち上げました。しかし自分が死ぬまでに答えが出るものではないだろうと言及し、自分はどちらでもいいと思う、「生きている間に、死について、いくら思い悩んでもどうにもならないのに、いつまでもあれこれ思い悩み続けるのは愚かなことである。生きている間は生きることについて思い悩むべきである」と結んでいます。

 

立花さんは、知りたいと思ったらどこまでも追求し、話を聞きたい人がいれば外国に行くのは当たり前、対談などにはすべての資料を熟読してから挑んだそうです。「まさかそんなの、怪しすぎだろ…」と思うようなところにまで踏み込んで、どんどん取材をし、資料を集めまくり、しかも最終的には自分でも体験してしまうのです。すごいなぁ、といつも思っていましたし、この本でもその貪欲ともいえる探求心は遺憾なく発揮され、様々なところに果敢に攻め込んでいます。

 

本には1970年代から「死の受容」を研究しターミナルケアに強い影響を与えた『死ぬ瞬間』を著している米国の精神科医キュープラー・ロス氏も登場します。立花さんは彼女にもインタビューをしており、彼女は死後の世界を容認し、死ぬことに恐怖はない、むしろ楽しみにしているといった発言もありました。晩年(この本が世に出た後)脳梗塞を発症し、身体が思うように動かなくなって以後は、自身の死に対して、また神に対して、当初とは違った考えを持つに至っていたようです。

 

「死ぬのは怖くなくなった」と言っていた立花さんですが、2007年にご自身のがんが見つかってからは、闘病を余儀なくされ、また、近しい人の死にもあい、ご自身も病身でありながら、ご両親のことを看取られました。『臨死体験』執筆の時は立花さんは50代後半、まだまだお若く死はまだ遠く、自分の死を想像しても「第三者の死」あるいは「二人称の死」に近かったのではないかと思います。常に自身の身体を実験材料として提供しては、好奇心の追及をなさってきた立花さんが、年月を経て、自身も患い、「二人称の死」を体験し、そしてついに一人称の死を迎えられた…

 

訃報に対し、図らずも思ってしまったのは、果たして「好奇心」は存続していたのか、あるいはやはり「一人称の死」には違った思いがあったのだろうか、ということでした。図抜けた好奇心で「知」の世界を追求し続けた立花さんだからこその、そのときの心境を知りたいと思ってしまった私の好奇心を作ったのは、立花さんの学びへの情熱であり、この『臨死体験』だったと思うのです。

 

7月1日木曜日のEテレ(前1:00~2:13)で2014年放送のNHKスペシャル「臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか」が放送されるそうです。その他にも、NHKアーカイブスの中からセレクトされた番組が、深夜帯で放送される予定だそうです。見てみようかなと思っています。


立花さんの本を読むたびに、どれほど知識と経験を蓄えても謙虚な立花さんから、「学べ、学び続けろ」と言われているような気がしていました。それは終わりのない深淵かもしれないけれど、知りたいという好奇心を持ち続ける大切さを、教えていただいた気がしています。

 

 追記:6/30(水)22:00のクローズアップ現代「知ることに終わりはない 〜立花隆さんからのメッセージ~」を観ました。自分の手術を見つめ「面白かった」「あの映像もらえないのかな」とどんなときも知的探求心を発動させ、自分の病気である「がん」についてもとことん調べる。「死を意識しつつ死すらご自身の関心の対象だった」と、最期を看取られた医師の方の証言があり、ああやっぱりそうだったんだ、と思って、なにか腑に落ち、安心、と言っていいような気持ちを抱きました。そうか、立花さんは最後まで、立花さんだったんだ、と。

 

秘蔵映像の中には『臨死体験』で登場していたレイモンド・ムーディー氏との20年越しの再会もあり、興味深かったです。本では「死後の世界」に否定的だったムーディー氏が、死後の世界を肯定するようになっていて、「なにがあなたにそうさせたのか」と問う立花さんに「なぜそうなったのか自分でもわかりません。でもそもそも人生は死ぬまで理解できないものなのです」というのが印象的でした。

 

なんだか、今はどこかで、ついに知りたかったことを理解され「ああ面白かった」と言っているような気がしてなりません。

 

これからも、立花さんが遺した100冊を超える書籍と、立花さんが語り掛けた子供たちが、私たちをさらなる知への探求に導いてくれると信じます。