みらっちの読書ブログ

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芸術論であり文学論【ギケイキ3/町田康】

 

 ついに。

 待ちに待って5年、ついに出ました『ギケイキ3巻 不滅の滅び』。

 

 実際、最初の行を読んだとき「あれ?2巻はどこらへんで終わったっけ」、と、途方に暮れた気分になりましたが、すぐに世界に没入。そうだったそうだった、前回は吉野山で静御前と別れ、雪山を流離う義経、とのところで終わったのでした。

 

 3巻は、前半が義経の逃亡で、潜伏していた南都(奈良)を去るまで、後半が静御前が京から鎌倉へ呼び出され出産し頼朝の前で舞を舞うまでの構成になっています。後半に向かって面白さは加速。途中から目を話すことができない――というか離脱不可能な領域になります。圧巻の3巻です。

 

 2巻から3巻までの間に、三谷幸喜さんのNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を挟んでしまったため、この巻では登場人物が大河の配役で頭の中に登場し、いいような悪いような気がしました。もう頭の中で大泉洋さんや中村獅童さんや小栗旬さんやらがずっと――映像化の恩恵なのか弊害なのか・・・

 

 しかしながら前半は、義経の麾下「佐藤忠信」の勇猛果敢な奮闘のくだりがメイン。大河ドラマでは武蔵坊弁慶など義経の従えていた部下たちについては「その他大勢」の扱いでほとんどモブ、歌舞伎に詳しい方などには物足りなかったのではないかと思います。当然ながら忠信の存在も非常に薄かったですね。義経にまつわる「物語性」はあの大河ではかなり端折られ削られていて、判官びいきの皆様におかれましては全体的に不満だったのではないでしょうか。仕方ないですね、頼朝が主人公でもなかったですし、ましてや義経はわき役だったので。

 

 『源平盛衰記』では佐藤兄弟は義経四天王といわれています。佐藤忠信は奥州藤原秀衡の命令によって兄の継信義経とともに遣わされ、義経に従った忠義に厚い家臣のひとりです。兄は屋島で義経を庇って(と言われているが真偽は不明)死に、忠信も義経が落ちのびる途中、義経の身代わりになったりしながら(ってこれも物語の中の話なので真偽は不明)、宇治で義経と別れた後、都に潜伏中に襲撃され自害。

 その壮絶な自害の様子は、『ギケイキ3』では若干トラウマになりそうな激烈なシーンとして描かれていました。これは12歳以下は読んで大丈夫でしょうか。今のアニメはぐちゃぐちゃのドロドロのスプラッタホラーが多いですし大丈夫だとは思いますが。

 

 前半の終わりごろに登場する、義経を匿っていた南都興福寺の僧侶、勧修坊聖弘( 聖弘得業)の逸話がまた面白かったです。平家追討の際には義経の依頼によって祈祷を行った僧侶で、義経を逃がした後、頼朝から鎌倉に召喚され尋問されます。

 この聖弘の人柄と思惑、義経との関係、そして尋問どころか逆に関東武士をオルグ(勧誘活動)しようとするさまが見事で、人間の心を動かす言論と言うものの力に関するある種の文学論ではないだろうかと思いながら読みました。

 

 そして後半、義経の心痛を喚起しつつ語られる静御前の話は、作者である町田康氏がミュージシャンであることが最大限に活かされた素晴らしい名文でした。人間と音楽、芸術の真髄を描いたものにこれ以上はないかもしれません。

 歴史を学んだり、物語を呼んだりするとき、静御前の話というのは「鎌倉に捕らえられて義経の子を出産、子供が男児だったので子供は殺され、由比ガ浜に捨てられた」「その後いやいやながら頼朝の前で舞を踊らされ、頼朝に反抗的な歌を歌いながら舞った」みたいな、もう、ものの数行で終わってしまうような話しか出てきません。

 しかしこの3巻では、この「静の舞」が素晴らしかったです。静の舞にこれほどの情熱が注ぎ込まれた物語を私はこれまで読んだことがありません。だからといって「感動で涙が止まらない」といったような薄っぺらいものではなく、当時、静の存在が時代的にどんなものだったか、それがどんな音楽でどんな舞だったのか、渦巻く政治的な思惑を主軸に、芸能やエンタメといったものが当時どんな役割を果たしていたのかが、つぶさに描かれ、歴史の中にうずもれて出てこない「些末さ」「滑稽」「泥臭さ」こそが、人間の歴史ではないかと思わされ、強く感銘を受けました。

 

 3巻は、既刊本の中でところどころ「ああここは写し書きしておかなければ」と思うような引用したい文章が特に多かったのですが、あえて引用は致しません。ただ、町田康氏の文学として、1巻、2巻よりもずっと、深まっていると感じました。↽偉そうな言い方。笑

 

 とにかく「待っていて良かった」と胸に抱くような3巻でした。クライマックスに向かって、ひたすらクレッシェンドしていく感じ――きっとこれから何回も読むことになると思いますが、初読の感想です。