
2026年10月26日(木)
最後に印刷会社に注文した本が届いて、嬉しいのに寂しい。
早くnoteに記事を書いて、宣伝や告知もしなくてはと思いながら、なんとなく、その気になれない。
今、家にはマドレーヌじゃなくてフィナンシェがあるんだけど、時を求めるのにあたっていただくのはフィナンシェでもいいかい?
マドレーヌとフィナンシェが違うものだと知ったのは、わりと最近。
フィナンシェは金塊の形で「お金持ち」と言う意味から来てるということを知ったのは、さっき。ググったから(ああ、ファイナンス。と納得)
終わりっていうのは、寂しいものだ。
いやべつに、ひと区切りってだけで、文学フリマに出ないと決めただけで、またやりたくなったらしれっと戻ればいいだけなんだけど。noteと同じように。はてなと同じように。
でも今回ばかりは、なんだかしんみりとしている。
シリーズを完結させたこと、それが目の前に「本」としてあることで、終わりを実感しているからだと思う。
先日、noteでお知り合いになったKさんとお会いする機会があった。
普段から、Kさんの記事や小説、スタエフなどを拝読・拝聴している。文学フリマでもたびたびお会いし、何度かお話したことはあったものの、ちゃんとお話ししたことがなかった。長年、いつかゆっくりお話してみたいと思っていたかただ。
以前、私の『春告鳥』シリーズの1・2巻を買ってくださっていて、今回、続きが欲しいとおっしゃってくださった。文学フリマで、文庫本四冊も持って帰ったら重すぎるし、なにより、じっくりお話しできるチャンスだ。お会いできませんか、とお誘いし、喜び勇んで、持って行った。
作家にとって続きが欲しい、読みたい、と言われることほど、嬉しいことはないと思う(あ、作家って言っちゃった。いいよね、ここだけの話で)。シリーズ物を書いていて、1冊楽しめたけど、もっと他の本も読んでみたいな、と思ってもらえることは、作者冥利に尽きると思う。
はてなの日記もときどき読んでくれていると言っていた。基本、特にnoteのつながりのかたからは、はてなの日記は読んでもらえないだろうと思っていたので、わざわざこちらに「指をお運び」いただいていることが、とても嬉しかった。
ランチを共にして、とても楽しい、貴重な時間をいただいた。
こういう繋がりこそが、noteの醍醐味、だと思う。noteをしていなければ会えなかった。お互いに記事を通して知り合い、それがきっかけで自分の本を読んでもらうことができたわけで。実際に会ってお話ができたわけで。こういう時は真摯に、noteありがとう、と思う。
当日は雨で、互いに家が少し遠かったので、雨脚を心配して早めに解散した。実は、もっともっと、お話していたい、と思っていた。
そのかたからは、とても有難い言葉をいくつもいただいた。
凹んでいた自分の、そのくぼみに、そっと水が注がれて、染みていくような気がした。
なにこれ。
ふっかつのじゅもん?
それは「ぜいたく」中の「ぜいたく」な時間だった。
とても幸せな気持ちをいただいて、帰った。
あちこちで、自分の小説のことを、「続き物ではなく、網の目のようにリンクしていく小説」と説明してきた。
どういう意味かな、と知りたくて読んでくださるかたもいるし、それぞれ独立した物語として読んでくださる方もいる。
最初に1冊だけ読んだときにはわからない楽しみかた、というのがあって。
それぞれの物語で、主人公も違えば物語のテンポも違うから、戸惑う人もいるのだけど(特に『春告鳥』シリーズはテンポや構造が独特)、それでもひとつ、ふたつと読んでいくうちに「なんか気になる」「この人、おばあちゃんになったら落ち着いたじゃん」「若いころはこんな感じだったんだ」などといろんな発見をしていくのだと思う。
これは……沼る。
自分で言うのもなんだけど、ほんとなんだから仕方がない。
シリーズを全部読みたくなってしまったかたが、案外いることがその証拠、と、自分では思っている。
ジャンルを決めていないから、どんなふうに読んでもらってもいい。
それが、気持ち悪い人もいるのは知っている。こんなの小説じゃないという人もいると思う。純文学かエンタメかから始まって、ミステリーならミステリー、サスペンスならサスペンス、ホラーならホラー、ファンタジーならファンタジーと言ってもらわないと安心できない、というかたには、確かにあまりお勧めできない。とはいえ、世の中はそういうものである。文学フリマだってまずジャンルを問われる。それは知ってる。今は知ってるけど。
以前は、ジャンルがそんなに重要なものだったなんて知らなかった。笑
私はジャンルで読むことはあまりない。しいて言えば、ミステリーはあまり好まないけど、コナン・ドイルだってアガサ・クリスティーだって赤川次郎だって読んだ(例が昔に偏りすぎだけど)。なんなら森博嗣だって東野圭吾だって読んでたよ(これも今は昔か)。エンタメ畑が好きでエンタメ小説を書くのも好きだけど、純文学だって好きだよ。というか、純文学とエンタメを分けて考えてみたことが無かった。これは村上春樹も言ってたから、そう言う人もいるってことでいいと思う。
読んだうちに入らない、と言えばそうかも。ファンタジーはシリーズ物が多いから、途中で止めちゃったのもある。でも好きだから結構読んだほうじゃないかな。わからない。
どれだけ読んだか、という物量的なことにこだわったことはない。その本の「質」も「評価」も気にしたことがない(全然ではないけど)。自分が面白そうだな、と思ったものを読む。単純だけど、それが私にとっては、いちばんの読書の愉しみかただ。図書館や本屋さんに行って、面白そうなものを探す。そこでの「出会い」が、面白い。単純に。
あるときから、自分が書く側になって、本を作った。
そうしたら不思議なことに、読む楽しみが、少しずつ減退してしまった。
本を作り終わったら、その楽しみはきっと戻ってくると信じている。
物理的に時間ができるということを含めて。
先日計算し直したら、二十作品/二十八冊作っていた。
普通に考えて、自分の本が本棚に二十八冊(以上)あるって、案外すごくない?とちょっと自画自賛してみた。というより、誰も「他賛」してくれないので自画自賛するほかない。いいねえ、どれを棺桶に入れる?と思案するが、どれも外せない。火葬場の人に「本は焼けるものだけど、何十冊も入れていいとは言ってない」と言われそうだ。そのときに首尾よく私の親族がいれば。いちおう控えめに、二、三冊にしておかなければならないだろうか。それを決めるのが大変そうだ。大変なくらいあるということは、ぜいたくなことだ。
次々に本を作るので、最近は「もう、……終わり……?なんだよね?……これで、全部だよね?」という、多少悲痛な、「吉穂の本を全部読んでやろう勢」の声がするんだけど、ごめん。PCのなかにはまだスピンオフがいくつかある。すごい勢いで書いていた時期があるんだよね、長い人生の中には。うん。ごめんよ。全部ぢゃない。いつか本にしたくなったらする。でももう大々的には売らないので、「読んでやろう勢」のかたは、なんとか手に入れてください。笑
でも本編は、これで全部。
本づくりはとても大変だったし、お金もかかった。
だからいったん、終わる。
それで、その「終わりだよ」という本が、今、目の前にある。
寂しかろうて。
本当は、すぐにも中身を再読し、印刷後の間違いをさがさなければならない。
でも今は、本の表紙を眺めてちょっとだけ感慨に浸っている。
あ。これもぜいたくな話、ぜいたくな時間かもしれないね。