
2026年10月24日(土)
昨日、村上龍氏の訃報を知った。
74歳とのこと。
Xはあまり見ていないのだけど、ほうぼうで悼む声のポストがあった。blueskyは読書アカなのでそれなりに悼む声を見かけた。noteは全くと言っていいほど名前が出てこなかった。アルゴリズムで関係記事しか出てこないし、文学フリマの話やZINEの話ばかり。あなたはそれにしか興味がないんでしょうと言わんばかりだ。私はそんな世界にいるわけだな、と冷静に思った。
blueskyには、私もポストした。
「私には、村上と言えばハルキよりリュウだった時代が確かにあった。すごく好きだったか?わからない。でもなんか一緒の時代を生きた時があった、確かに。」
以下、すべて敬称略で書く。
村上龍は最近までテレビ出演もしていたし、露出が多い芥川賞作家だったと思う。ダブル村上と呼ばれて村上春樹と並んで紹介されていた頃もあったけれど、いつのころからか、なんとなく村上春樹のほうが知名度が高くなっていた気がする。徐々に話題作が減っていたようにも思う。
デビューは1976年。24歳の時、米軍基地のある町を舞台にした『限りなく透明なブルー』で群像新人文学賞、翌年芥川賞を受賞して、一躍注目された。私は当時小学校一年生くらいだったので、リアルタイムではその受賞を知らない。読んだのは大学生になってからだったと思う。18歳くらい。20歳で村上春樹と出会って、ダブル村上時代を満喫した。
私が大学生の時は、村上龍は30代ですでに10年以上のキャリアのある小説家で、村上春樹は村上龍の数年後の1979年、30歳のときデビューしていたものの、10年ほどのちに40代で『ノルウェイの森』が爆発的大ヒットを飛ばすまで、そこまで超有名というわけではなかった。気がする。あくまで個人の思い出の話。
実際、『限りなく透明なブルー』はとても小学生が読める内容ではなかったので、リアタイしていなくてよかったかもしれない。私が大学生当時初めて読んだのはたぶん『トパーズ』。そのあたりから、村上龍氏の作品をいくつか読んだ。『イビサ』は発売直後に読んだのでそのあたりまでは読んだかも。『コインロッカー・ベイビーズ』とか、自伝的小説とか。その後はもっと社会性の強い作品を描くようになって、『13歳のハローワーク』が出たころは、村上龍もすっかり丸くなったんだなと(勝手に)思った。
最近、自分が生まれたころは、今からするとまだ戦後の匂いが濃厚だったんだなと感じることが多々ある。私が中学から大学生くらいの、昭和から平成くらいまでのころ(ちょうど1970年代から1980年代)。もはや戦後とは呼べないほど完全に「戦争を知らない子供たち」だけで社会が構成されている気になっていた時代。それが、令和の今からすると、戦争の生っぽいものがまだ残っていたとしか思えない。
村上龍と戦争の、何の関係が?と、思うかもしれない。彼のデビュー作は米軍基地のある福生が舞台になっている。テーマは若者の虚無と退廃と再生。その根本に米国との複雑な関係性がある。文化・カルチャーは激流のように流入していたけれど、社会的・国際的な立ち位置は微妙。ただ、安保反対の勢いはすっかり影を潜めていても、大学の構内にはビラなんかがばんばん貼られていたであろう、時代。まだまだ焦げ臭いにおいは漂っていた、あの時代。
米軍基地、人種差別、ドラッグ、セックス。それまで「そのこと」を書くのは一種のタブーだった。『限りなく透明なブルー』は、目を逸らしたくなるような若者の生活を描き出していて、見識ある大人たちの批判も強かった。芥川賞作品ながら、「これは特別な土地の特別な人の特別な話」という「イロモノ」的見方をしていた人も多かったように記憶している。現実から目をそらしてんのはそっちでは?と爆弾を投げるような作品だったのだ。
1990年代くらいまでは、文学や漫画の世界で、米軍基地を舞台にした作品は、かなりあった。たとえば山田詠美。デビュー作は1985年の『ベッドタイムアイズ』。横須賀の米軍基地の米兵との同棲を描き、衝撃作として注目された。それより遡って1978年には漫画家の吉田秋生が『カリフォルニア物語』を描いている。これは舞台がベトナム戦争中の米国という異色作だ。ここで描かれるドラッグとセックスと若者の退廃。アメリカで起こることは10年後日本で起こると言われていた頃のことだ。
吉田秋生は長くそのテーマで漫画を描き続けた。『河よりも長くゆるやかに』も横須賀の基地の街の物語だし、『BANANA FISH』はベトナム戦争とドラッグとセックスがもたらした被害や二次被害、PTSDや子供たちの悲劇を描いていて、現在話題の映画『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』に繋がる問題を浮き彫りにしている。
もうひとり、残念ながら交通事故で筆を折った漫画家の岡崎京子は、その次の時代にタブーを描き続けた人だと思う。『ヘルタースケルター』には村上龍の文体や描写への親和性があると常々感じる。もちろん、ただの個人的意見だけど。
それより少し前のエンターテインメントの小説家で、そういったタブーに触れていた作家もいたと思うのだが(平井和正氏はそうだったと思うのだけど、ちょっとスピリチュアル寄りになってしまった。あれはあれで、実は現代に深い禍根を残した問題を扱っていたともいえるのだが)、村上龍ほど若くて刺激的な作品を描いた人はそうはいなかった気がする。
私は若い頃、そういう空気やエンタメを浴びて育った。
だから、今の若い人が、戦争や、ドラッグやセックス描写を嫌うということに、隔世の感を覚える。平和な、良い時代になったんだなと思う。そして、実は結局なんら解決することなく棚上げし、次世代に持ち越された問題を、私たちは扱いあぐねているのでは、と思う。かえって深く混迷しているのではないか、と。
村上龍は時代に選ばれ、時代と共にあった作家さんだと思う。
深く追悼の意を表したい。