こんにちは。
今日は、少々前に図書館から借りて読んだ本です。
『中世を道から読む/齋藤慎一』2010年刊。
鎌倉に比較的近い地域に住んでいるのですが、常々、地図上、真っ直ぐ北に向かう道があればいいのに、と思っていました。
鉄道では逗子から渋谷新宿にむかう湘南新宿ラインができた時は、ものすごく画期的!と思いました。それ以前は品川や東京から乗り換えないと、新宿には行きにくかったのです。
鎌倉時代、上道、中道、下道と呼ばれる鎌倉街道(そこまで整備された道ではないけれども、江戸時代にはそう呼びならわされている記述があるらしい)があり、宇都宮に至るのは中道(中路)でした。高崎に至るのは上道、土浦方面の常陸方面に向かうのが下道でした。
湘南新宿ラインは高崎行きと宇都宮行きです。
東京上野ラインも延びて、高崎・宇都宮・土浦に向かっています。
必ずしもかつての街道ではありませんが、もしかしたらこれは鎌倉街道の再現なんじゃないか、と漠然と考えていました。
この本によると、鎌倉が拠点の時代と、江戸が拠点の時代に必要な道は違うのだと言います。江戸に拠点が移った時点で、鎌倉街道の必要性が無くなったのだ、と。
なるほど~。
もともと、日本は急流河川の国。利根川を中心とした支流を含む川の流れをどう渡るかで、道が決まり、そして難所があれば管理しなければならず、関や物見を設ければそれだけ管理者が増え、それらを掌握しながら道を確保することはものすごく大変だったのです。
江戸以前は小規模に武士を中心とした領地があり、そのせいで関所がやたら多いわけです。とにかく一貫した幹線道路を整備することは不可能で、獣道みたいに、人や物資が往来することにより出来た道をつないで繋いで、川の流れの通りやすいところでまだ繋いで、領地に寄っては険しい尾根道、あるいは整備された広い道とモザイク模様に展開していったのが鎌倉街道の全貌でした。
季節や領地争いの情勢により、道を選んで上道から中道、中道から上道と回り道したり、あるいは下道で千葉から直行など、様々に腐心しての、「いざ鎌倉!」だったんだ、ということがわかりました。
現代の道路で言うと、皇居を中心に環状に道路が走り、放射線状に鉄道と主幹道路が配置されていて、神奈川から埼玉、群馬、栃木方面に行くには、どうしても都下を遠回りしていくか、都心を経由するルートになってしまいます。
やはり、立ちはだかるのは、川。
でも今は、技術的に利根川もある程度治水出来るんじゃないかしら。そうしたらぜひ鎌倉街道を復活させ、埼玉、群馬、新潟、茨城、栃木、千葉を、うまく神奈川県に接続してもらいたい!と思う人が多かったのかどうか、1987年に圏央道の構想がスタートし、これでこれまでの環状線の外側で、神奈川県から東京都・埼玉県・茨城県を経由して千葉県までを結ぶことになりました。ちょこちょこと工事が進み、まだ全線開通には至っていません。
環状ながら、これはかなり、鎌倉街道に近そう。
ところで、中世の山岳部で情報を最も早く迅速に伝えていたのは忍者や間者ではなく
山伏
だということを、この本で初めて知りました。
山伏。といえば法螺貝。
絵巻などには僧形の天狗姿も多く描かれます。
いわゆる弁慶みたいな人ですね。
義経も鞍馬で修行していました。
そのネットワークはすさまじく、治水ができない時代、山岳部を天狗のように駆け抜けた、まあ身分としては僧たちがたくさんいて、ヒトモノカネを伝達していたことは、非常に興味深いです。各地の寺を拠点に、日本国縦横無尽です。それこそ出羽とか、熊野とか吉野とかまで、津々浦々といっていい範囲。
海から山から、日本ってほんとうに面白いですね。
今は、どうなんでしょう、山離れは深刻なんでしょうか。山伏が駆け抜け守った山を、今は山岳ガイドさんたちが山を守っているのでしょうか。山と山をつなぐルートは、どうなんでしょう。もう無いんでしょうか。
人間が平地の集落に密集して、道路が寸断された場合、ヘリ以外には通る道がなさそうです。でも中世は実は、分断されていなかったのかも、と思いました。
蜘蛛の巣のように張り巡らされたリアル山道で情報をやりとりしていた、とすれば、電話もインターネットもないのに情報が即座に伝わった理由がわかります。時間はネットや電話よりはかかるし正確ではなかったかも知れませんが。
史跡と伝説がたくさんあるのに、痕跡のない鎌倉街道。
中世15世紀後半、北条早雲が出る頃までの主幹道路と、戦国から江戸、現代に続く主幹道路が、縦と横になっている、というのは面白かったです。そして、遠路とは、単に距離だけではなく、通行困難をさしていたことも興味深いです。心理的にも物理的にも、やっぱり鎌倉は遠かったんだなぁ、と思います。
「いざ鎌倉」は、そう簡単なことじゃなかった、ということですね。
想像力を刺激する本でした。