みらっちの読書ブログ

本や映画、音楽の話を心のおもむくままに。

友だち追加

呪いから解放される物語【クリームイエローの海と春キャベツのある家/せやま南天】

 

重版だそうです。

 

このご時世、滅多なことでは重版になりません。

新人作家のデビュー作が、発売から1か月も経たないうちに重版が決定するなんて、おそらく相当に異例のことだと思います。

publications.asahi.com

『クリームイエローの海と春キャベツのある家』は、noteの創作大賞に応募されていた作品です。朝日新聞出版社賞を受賞し、この4月に出版されました。先日から、神田神保町のPASSAGEの3階にある『吉穂堂』の棚に、置かせていただいています。

 

 noteというのは、文章に特化したSNS系プラットフォームです。

 

 私は2020年からnoteを始めましたが、「創作大賞」と銘打ったものは、確か2021年からあったように記憶しています。それまで出版社各社が協賛するコンテストと言えば、2021年と2022年はむしろ「読書感想コンテスト」のほうが印象が強かったのですが、「読書感想コンテスト」では、各出版社がそれぞれ受賞者を選び、出版社が直接受賞者にコンタクトを取って、賞金や商品を授与するなど、少々バラバラ感があったのは否めませんでした。

 2021年の読書感想コンテストでは私もいくつかの出版社から賞をいただいて、書籍やサイン本などをいただきました。2022年には「note賞」などもいただいています。

 しかし、メール1本で「おめでとうございます」と伝えられただけで終わりで―――割とそれがトラウマで(笑)、どういうところがどのように良くて選ばれたのかも分からず、Amazonポイントが振り込まれてお仕舞いで、実は若干、肩透かしを食らったような気がしていました。

 ほかにも「クリエーター応援プログラム」といった企画がありましたが、賞金の額は大きくなっていきましたが、受賞後のケアという点ではそこまで形が整っていたようには(はた目からですが)思われず、このプログラムは翌年からは無くなりました。

 そのような経験があったため、私はnoteの賞に、失礼ながらどこか尻切れトンボのような印象を持っていたのです。

 

 創作大賞じたいは、2022のころから、次第に「賞」としての形が整ってきたように思います。しかし、2022は大賞受賞者が該当なしだったこともあり、各出版社さんも勝手がわからなかったような印象がぬぐえませんでした。ジャンルも少々定まらない感じで、note4年目の得手勝手な目線で言わせていただくと、2023年の創作大賞とは「賞」としての規模とその後のケアが雲泥の差だったと思います。

 2023年の創作大賞は、協賛する出版社も知名度の高い大手の出版社が多く名乗りを上げ、noteからの速報や受賞後の発信の質や量が、前年とは全く違いました。

 

 何年かnoteにいる人々にとって、「今年(2023年)の創作大賞もまた例年通り、あまりぱっとした形にならないまま小さな企画として終わってしまうのだろう」的な目線が、無かったとは言えません。華々しくデビューし、書店にずらりと書籍が置かれ―――といった景色は、2022年の創作大賞にはありませんでした。密かにデビューされていた方もいたのだと思いますが、noteの中で派手に盛り上げるといったことがなかったのです。そのため、長くnoteにいた人ほど、翌年の創作大賞を少し冷めた視線で見つめていたように思います。

 

 ところが予想に反して、2023年の創作大賞は、これまでとはまるっきり違う、本格的な「賞レース」でした。そのことにいち早く気づいて、真剣に向き合った方々と、「また今年も・・・」といった「とりあえず記事出しとこうかな」くらいの生温い熱意の方が「ごった煮」だったのが、2023年の創作大賞だったように思います。

 おそらく、運営さんと各出版社の方々は、何万点も集まった作品の中から真剣な作品をより分けるのが大変だったのではないか、と推察いたします。

 

 また、2023年からは「ベストレビュアー賞」として、創作大賞に参加する作品を応援し、応募作品の感想文を書く人に対する賞もできました。そのことで、より一層、賞レースが盛り上がったのではないかと思います。

 

 2023年の創作大賞が大成功したことによって、2024年の創作大賞は否応なく盛り上がるような予感がします。「私もデビューできる」「商業出版できる」という確たる実績が出来たのですから、おそらく今回は、参加する作品がすべて真剣勝負になると思われます。

 

 その先鞭を切ったのが、今回の大賞受賞者の秋山さんと出版社賞のせやまさん、ということになります。

 

 大変正直に申し上げると、私は前回の創作大賞に対し「また今年も」と、ひんやりした視線を持っていた組に属していました。前述したように、noteの「賞」に対して、モヤモヤした思いを抱いた経験があったからです。自分のkindle出版や自作本の制作にかかりきりとなっており、そちらにまったく目が向いていませんでした(いちおう、昔書いた作品をリライトして出してはいましたが、「いちおう」とか「昔書いた」とか、生ぬるさが半端ないですね)。

 

 そのため、中間発表になってから、フォローしていたせやまさんの作品が選ばれたと知り、ぎりぎりになって全編を読ませていただいたのです。まさに駆け込みです。読んですぐ「ぬぉぉこれは!」と興奮したままコメントを書きましたが、まさかそれが、帯コメントの一番最初に掲載されるとは・・・創作大賞初期から、丁寧にせやまさんの作品を追っていた方もいたでありましょうに、嬉しい反面、なんとも申し訳ない気持ちもあります。

 

 改めて感想を書こうと思っていますが、感想の基本的なところはコメントに集約されているので、今回こちらでは、むしろ「書評」として、70%ほどのネタバレをいれつつ、書こうと思います。もし、これから読むのだから先入観を持ちたくないという方がいらっしゃったら、ここまでで。

 

 さて、まとめ読みでnoteの記事として作品を読ませていただいたときは、記事の形ですので作品がいくつかに区切られており、一編の小説として読みやすいスタイルとは言えない部分はありました。が、その時も、この作品の「真髄」のようなものに強く心を動かされたものでした。

 

 この度、帯にコメントを載せていただいたご縁で「謹呈」されたご本を改めて読みました。書籍化にあたって加筆修正された部分によって、物語がよりすっきりと、かつ豊かになった印象を受けました。スマートな導入部の表現や、主人公の心象のみずみずしさが、より際立ったと感じています。

 

 ちなみに私はコメントに、次のように書きました。

 

そもそも家事が苦手な主婦です。主婦をやっていることにずっとコンプレックスがあります。他に何もできないし、主婦もできない自分がいつも情けなくて。でもこの小説を読んで、他の家が良く見えてるだけかもしれない、みんな一生懸命やってるし、向き不向きだってある、という、当たり前なのかもしれないけれど気づきにくいことに気づかせていただいた気がします!

 

 他の方のコメント共に、朝日新聞出版社さんがこちらの記事にまとめてくださっています。

 

webtripper.jp

 

 『クリームイエローの海と春キャベツのある家』(略して『クリキャベ』)の主人公津麦(つむぎ)は、とある挫折経験から「家事代行」の仕事に転職することになります。妻(母)を癌で亡くした、子供5人のシングルファザー家庭である「織野家」が職場になることで、悩み、葛藤し、経験を積み、成長していく物語です。常に津麦に向き合い、話を聞いてくれる先輩であり担当相談員の安富さんが、要所要所で的確なアドバイスをくれることで、津麦は自分自身で問題の本質に気づき、解決していくようになります。

 

 「お仕事小説」。カテゴリは確かにそうなるのかもしれません。しかし私は、最初に読んだときから「呪いから解放される物語」だと感じていました。

 人にはそれぞれ「ねばならない」とか「であるべき」といった、目に見えない、幼少期から培われた「呪い」があるように思います。真面目な性格であればそれが強く出ますし、それを覆すことは容易ではないと思います。なぜならその「呪い」は、自分の中に深く根を張り、無自覚で、目に見えず、気づきにくいものだからです。

 

 津麦は「完璧な主婦」の母のもと「きちんと」の呪いにかかっていた、といえます。なにごとも、きっちり、きちんと。であるべき、に縛られた半生です。いっぽうで、母もまたその呪いに縛られている、囚われ人であることも、感じています。しかし娘の立場から、母の呪いを解くことが出来ず(「いつかお母さんにとり憑いた悪魔を、やっつけてやる」)、自分の呪いにも無自覚に成長しているのです。津麦の中には、癒されない子供がずっと、解放を待っています。

 

 反発して自ら商社を選び就職したものの、その仕事を「きちんと」しなければいけないあまりに、過労で倒れてしまい、転職を「余儀なくされた」ところから物語は始まります。母と娘の「呪い」の中心に会ったのは「家事」でした。津麦は、「理想の子供」に挫折したものの、気が付かないうちに「悪魔をやっつける旅」に出ていた、といえます。

 

 織野家のお父さん、朔也は頑張っていました。ワンオペではもはやどうにもならないのに、あらゆることを抱え込み、こちらもまた「妻がしていた家事」という亡霊と闘っていました。彼は津麦とは逆に、「理想の親」という呪いに執り憑かれていた、といえます。

 

 津麦の「家事」と朔也の「家事」は優先順位が食い違います。津麦は「きちんと」してこそ生活が成り立つと思いますが、朔也はとりあえず生活してこそその先に「きちんと」があると思っています。本来なら「手伝ってもらう側」と「手伝う側」として需要と供給が噛み合うはずが、互いに自分の向き合っている問題に比重が置かれ、相手の「望むもの」を理解できず、どこかで噛み合いません。

 

 どういうわけか、自分の家のアラというものは目につきにくいものです。嗅覚疲労のように慣れると感じなくなる、鈍感になる、そういう側面があります。しかし第三者が家にはいることで、今まで見えなかったものが見えてきます。そこで初めてふたりはそれぞれに、自分を縛っていたものの正体に気が付くのです。

 

 突破口を開くのは、いつも子供たちです。子供たちは自分も子供であると同時に、親のことも良く見ています。そしてどんな人も、誰かの子供です。津麦は母を許し、朔也は理想の親になれない子供を抱えた自分を許し、そうして自分の足りないところを誰かにゆだねることで、少しずつ、解放されていくのです。

 

 家事ってほんと、なんなんすかね。永遠に、前にも後ろにも進まないで、犬が自分の尻尾を追いかけてるみたいに、同じところをくるくる回ってる感じなんですよね。

 片付けても片付けても数分で汚されて。また片付けて、汚されて。この片付けた時間はいったい何の意味があったんだろうって。 

 料理だってそうですよ。作っても、作っても、すぐに子供の腹は減る。食べてる最中から、次の食事は何にしようか、って考えなきゃいけない」

 

 

 海を眺めながらの、その朔也の独り言のような問いかけに、津麦は「家事は波のようだ」と思います。散らかったすべてを綺麗に消し去るのが家事だ、と思うのです。

 

 私はこの朔也と同じ問いかけから、いまだに逃れることができていません。津麦の考えるように、毎日をクリアランスするように家事ができたら、どんなにか楽になるだろうと思いますが、それにはやはり津麦のようにてきぱきと家事がこなせるスキルが必要なのかもしれません。

 それでも、家事が苦手なままに、折り合いをつけて生活していくのだろうと思います。それでいいじゃないですか、と、せやまさんと安富さんに言われているような気がします。読んだ後、清涼感があるラストです。

 しいていうなら、吉本ばなな『キッチン』を読んだ後のような、癒しと開放を感じる『クリームイエローの海と春キャベツのある家』。

 今の時代に、人々が求めているのがこの開放感なのではないか、と思います。