みらっちの読書ブログ

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書きたい時代の読まれ方【読んでほしい/おぎすシグレ】

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こんにちは。

 

 Twitterで書店などをフォローしているので、リツイートされた書評のネット記事を見かけることがあります。

 

 特にダヴィンチニュースの新刊情報は本当によくできているのです。読みたくなってしまうのです。

 

 必死に堪えるのですが、ライターさんが上手なんでしょうねぇ。もう、居ても立っても居られなくなりポチっと押すことが多々あり、危険なのにスルーすることができない。一種の麻薬的な恐ろしい記事が多いのです。

 

 とはいっても、毎日それを繰り返していたら破産しますので、なんとか堪えます。

 

 でも今回ばかりは、久々に耐えきれずポチっとしてしまいました。

 

www.kinokuniya.co.jp

 

 表紙を、『大家さんと僕』の矢部太郎さんが描かれています。著者のおぎすシグレさんも名前から予想がつく通り、もともと芸人さん。

 

 小説を書いて、それを読んでほしいのになかなか読んでと言えない。それだけの話なのですが、ライターさんの紹介文が秀逸でした。

 

ddnavi.com

 

 こちらの記事から引用させていただきます。

きっとこのあらすじを読んだ人の感想は二分するだろう。「どうしてそんな簡単なことが伝えられないの」という疑問と、「わかる」という共感。後者が先に出た人は、おそらく何らかの作品づくりに没頭し、一度は完成させたことがある人ではないだろうか。

 そしてこうも続けます。

 また本作は、年齢を重ねても何らかのクリエイターやアーティストになることをあきらめられない大人たちに向けたエールでもある。主人公は四十歳、周辺人物たちの年齢層は三十代後半から五十代。彼らの言葉からは、人生が折り返し地点に差しかかってきた人々の葛藤が手に取るように伝わってくる。

 

 「ものを創る」ことにとりつかれる人が、一度は味わうこと。作ったものを、見てほしい。でも見せて何と言われるか、それが怖い。反応が良くなかったら、凹んだまま戻ってこられないかもしれない…でもこのまま、誰にも見せず、可愛い我が子同然の作品を闇に葬るなんてできない!という葛藤。

 

 実はネットニュースではエッセイだと思っていたのですが、半実話風小説でした。おぎすさんは出版どころか「読んでもらうことすらできない」小説を「ネタ」にすることで本を出版しているわけです。逆転の発想と言えるかもしれません。

 

 私もブログを始めようと思って「はて、これを見知らぬ誰かに読んでもらうわけか。いやいや、恥ずかしいな。その前に身近な人に見てもらってからがいいな」と思って、最初の読者が10人だったという話は以前しました。

 

 実際、その10人に「ブログ始めたんだ!読んで~」と気軽にいうのがどうにも気恥ずかしく、なかなか言い出せなくて、LINEで「最近どうしてる?」なんて世間話のついでみたいな感じで「実はブログをしてるんだ~」と言ったりしていたのです。

 

 そして年齢が行けば行くほど、何か自分の好きだったこと、夢を形にしたい、いつかは、いつかはと思う気もちと、なんとか折り合いをつけて生きてきたことに踏ん切りがつかないジレンマを味わったりもします。あるあるです。

 

 この本は、かなりの数の、創作に携わる人、夢を持ちつつ年齢を重ねてしまった人の共感を得るところだろうと思われます。

 

 ところで、これと同時に読んだ本がこちらです。

 

www.amazon.co.jp

 

 こちらは主婦ブロガーさんがnoteという媒体に書いていた小説を、Amazonの電子書籍で出版したものです。こちらもまた、エッセイではなく、架空の人物を想定した小説の形式です。

 

 おぎすさんの本の根底にあるのは「クリエイティビティ」です。創作作品、という観点です。そこに作品への思いや、夢を追う自己の葛藤が絡みます。

 

 いっぽう、三浦さんのほうは、ネット媒体でオープンにした状態で書き始めています。最初から「見られる」前提で書いているものです。それをどうにか出版できないか、と奔走するお話。こちらも「自分の本を出す」夢を追ってはいるのですが、どちらかというと作品は商品、という観点になります。

 

 かつて小説を書く、と言ったら家から勘当されるような時代がありました。小説なんてまともな仕事だと思われていなかった時代です。そんな中で生活に余裕のある人が多くなり、心を動かす小説家が現れ「小説家というのは芸術家なのだ」「偉いのだ」「大先生なのだ」という時代が来ます。その後、商業として「儲からなければならない」小説家の時代があり、今はある意味、「書きたければ誰でも小説家」みたいな時代になったわけです。

 


 大衆化、というのとは少し違うかもしれません。言ってみれば「量産化」かもしれません。ファッションも量産型の時代ですしね。そうはいっても、文筆に無縁の生活を送る人はたくさんいて、読みもしなければ書きもしない人もたくさんいます。しかし書くのが好きで、「書きたい」と思う人には、この時代は最高の時代かもしれません。

 

 にもかかわらず、本を出す人と出さない(出せない)人がいます。

 

 本を出す人は、すべての人が等しく「出版」という壁を乗り越えることになります。そしてその壁は、昔と変わらず高くそびえたっています。

 

 おぎすさんは、可愛い我が子同然の作品を「誰かに」読まれたいと思って奔走します。しかしそれは最初から酷評するような人では嫌なのです。率直な感想は聞きたいけれど、優しく励ましてもらいたい、すごいね、いいじゃん、と言われたい気持ちがあるから、いきなり出版社に持ち込む、というようなことはしません。そんなことをしても「実績」のない作品が「本」になることはないばかりか、傷ついて立ち直れないかもしれないからです。

 

 三浦さんの場合は、文章が生まれた時から人の目にさらされています。だからといって、ブログで何万、何千万という単位のフォロワーがいるわけでもなく「実績」がないので出版社に相手にしてもらえません。現実に本を出版するまでの裏事情をこれでもかと経験します。三浦さんは、身銭を切って、ひとつの賭けとして出版を果たします。その結果、高評価を得たのですからある意味こちらも逆転劇です。

 

 以前『騙し絵の牙』と言う映画をみました。原作があるのかと思ったら、主役の大泉洋さんの当て書きだそうです。

eiga.com

 

 本(や雑誌)を出版する、ということをめぐって、敵対する勢力を陥れ、どんでん返しを繰り返す、騙し騙されるお話です。出版業界の「闇」を描いていますが、実は最初私は、もともと原作のあるものだと思っていたので、原作の方がきっと深いんだろうなと思いながら観ました。裏を返せば、映画には少し「浅さ」を感じてしまったところがありました。

 

 キャスティングが良くて、大泉洋さんの、飄々とした顔の陰で裏で画策したり人を操る演技は見どころですが、新人賞の選び方や作家の取り合いなど、えげつないことこの上なく、現代の「出版」というのはフォロワー数や、既にある分野で有名であるということや、話題性(犯罪や受賞や希少性)などの「実績」に価値があるのは間違いないようです。

 

 出版に携わる人々も本が売れなければ話にならない、「食べて行かなければならない」わけで、夢だとか、クリエイティビティだとか、そんな甘っちょろいことを言ってはいられないのが現実なんだろうなと思わされるものがありました。

 

 書きたい人にとってはいい時代だ、とさっき書きました。

 

 確かに、昔と比べて、誰かに読んでもらったり、見てもらったりすることに対するハードルは格段に低く、様々な媒体で、無名の作者の作品をネット上でいつでもだれでも読むことができるようになっています。こうしたブログも、もちろんそうです。

 

 実際、ブログなどから本が出ることも多くなり、書店に行ってもそう言う本がずらりと並んでいます。まれに「ブログを見た出版社の方に声をかけてもらって出版した」という人も見かけますし、どうやったら出版できるかについて書かれた文章も溢れています。

 

 では本を出して「商品」として買ってもらうことが簡単なのか、というと、そうでもありません。小説サイトでどれほどの高評価を得ていても、そもそも出版に漕ぎつけない人もいます。出版されても売れずに消えていく本も星の数です。

 

 必要なのは、「書く人にとっての黄金時代」とは全く無関係に発動する「運」だったり「人脈」だったり「文学とは別次元の努力」だったりします。ひょっとしたら、公募や新人賞に作品を送り続けるという方法しかなかった時代より、SNSで「実績」をつくるほうが、ずっと厳しいのかもしれません。

 

 そもそも「読んでほしい」という気持ちの中には、何とも言えない複雑なものが潜んでいます。

 

 もし、自分が友達から「読んで」と言わる立場だったら、気軽に「いいよ」とは引き受けられないかもしれません。『読んでほしい』の中でも、読むのを断る人がでてきます。

 

 まずその友達との関係を、先に考慮してしまうでしょう。面白くなくても面白くないなんて言えません。でも「読みたくない」と言ったら?それもまた相手との関係が変わってしまうかもしれません。とりあえず「読みたい」と言って「面白かったよ」ということになります。それが本気か、優しさかというのは別として、結果として同じ言葉になると思います。

 

 身近な人が感性が似ていたり共感するとは限りません。会ったこともない人の方が心に響くこともあります。コメントが無いのは「愛」。でも書いた人はコメントが無いことにさえ傷ついたりします。

 

 「ただ読んでほしいだけなのに」という言葉は深いです。

 

 主人公が「優しい人に優しい反応を期待している」ことには少し、ざらついた気持ちにさせられました。

 

 一発打ち上げる花火のように「出版」することはたぶん、今の時代、望めばできるのでしょう。でも書いた人間が本当に欲しい反応は、書いた人の作品への思い入れが深ければ深いほど、そう簡単に得られることは無いのかもしれません。

 

 改めて作家さんや文筆家の方に尊敬の念を抱きます。こんな困難を乗り越えて、書き続けるというのは、並大抵のことではないと思います。きっとどこかで「読んでほしい」を乗り越えていくのだろうと思います。