みらっちの読書ブログ

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心に撒かれた種が時間差で花咲く【白河夜船/吉本ばなな】

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こんにちは。

 

以前、村上春樹について書きました。

 

村上春樹『ノルウェイの森』の出版と同時期に鮮烈な印象を持ってデビューして、一躍大人気となり、売れっ子作家となったのが、吉本ばななさんです(なんかすみません、村上春樹は敬称略で吉本さんは吉本さんで。笑)。1988年、第6回海燕新人文学賞受賞。

www.kinokuniya.co.jp

 

表紙も可愛らしくてオシャレで、胸がときめきました。

当時、私は大学生。

本の主人公も年齢が近く、文体も平易で親しみやすく、年配の批評家さんが「漫画だ」と言った(批判した?)ことにも、「年寄りにはわからない感性なんだ」と憤慨していました。

 

翌年、『TSUGUMI』(山本周五郎賞受賞)が出て、こちらもベストセラーとなりました。ふたつの作品はすぐに映画化され、押しも押されぬ人気小説家となった吉本さん。

 

吉本隆明氏の娘さんだったんだ…

というのは、実は私には少しだけ、ショックなことでした。

別に吉本さんが隠していたわけでもなく、私が知るのが遅かっただけなのですが。

 

当時はSNSなどもなく、作者さんに関する情報は意外と入らず、まずはそのものずばりの「書籍」だけが、作者さんを知る、つながるすべてでした。周辺事情はその後、雑誌の記事やニュースなどで知っていくことになります。

 

大学卒業と同時に華々しくデビューし、書店に本が平積みになり、映画化もされ、注目された作家さんが、詩人で評論家である著名な方の子供である、ということは、若干、私の中の独断と偏見に基づく「市井の民のサクセスストーリー」に水を差してしまいました。

 

それは、とてもとても勝手な思いです。吉本さんは好きで有名人の娘さんに生まれたわけではなく、そもそも受賞や出版は彼女の才能と努力によって得たものなのですから、それを責める筋合いなどまったくもってないし、私がそんなことを思ったところでまるでへのかっぱでしょうけれども、正直な気持ちでした。

 

やっぱさ、若くして称賛を浴びるような華々しい人達は、華々しい世界に生まれて、華々しく育ったから、華々しくなるんだな。

 

別に自分が小説家を目指して努力していたわけでもなんでもないのですが、そんな、妙な嫉妬心のようなものが湧くくらい、彼女の文体は優しく瑞々しく軽やかで、親近感に溢れていたのだと思います。設定も、ネーミングセンスも確かに少女漫画的で、若い読者にとっては慣れ親しんだ世界でした。これまでの文学にはなかった、同じ世代にはまるで必須栄養素でもあったような「スピリチュアル」が自然に溶け込んでいる世界。

 

おそらく私は最初、いまでいう「ラノベ」と「文学」の狭間のようだと思っていたのだと思います。それまでさんざん読んできた新井素子さん氷室冴子さんに通じるものが、そこにあったのだと思います。だから最初「少女小説が文学に格上げになった」と、舞い上がったのです。

 

それが売れに売れ、映画化されることになって「あれ?」と思いました。さらに、何ヶ国語にも翻訳されているというのも「へえ…」と思いました。

 

「面白いけど、そこまで?」(←超失礼)

 

でも、とりあえずそんな感情は心の中にしまって、書籍が出るたびに単行本で購入し、読んでいました。

 

私が最も好きな作品は、吉本さんの代表作でもある『白河夜船』です。

www.kinokuniya.co.jp

文庫版はグレーですが、初版の単行本の表紙は紺に近い深いブルーで、とても素敵です。

 

死と夜をめぐる3つの短編集です。

「眠り三部作」とも言われているとか。

 

それぞれ独立した話で主人公も別ですが、流れているテーマが同じです。

 

眠りと死は分かち難く夜の中にあり、死者は現世を生きる主人公に、夢うつつの中で「死」と「生」の連続性を垣間見せ、前を向いて生きる力を与えてくれます。

 

いわゆるグリーフケア(死別など深い悲しみや悲痛を癒す)的な話です。

 

でもいつも、どこかで読んだような…とも、思っていました。

 

特に岩館真理子さんの漫画を連想します。あと、ほんの少々、岡崎京子さんと松任谷由実さん(どちらかというと荒井由実さん。ユーミンはミュージシャンですが)。やはり「時代性」というのは決して無視できないものなのかもしれません。

 

どこかで吉本さんが、岩舘さんの漫画の影響を受けていると語っていた記憶がありますが、それを目にしたとき、ああなるほどと思いました。

 

岩舘さんの『うちのママが言うことには』(1988年)という作品がとても好きなのですが、あの中に出て来る短編『眠るテレフォン』『冬の星が踊る』といった作品は、すごく「吉本ばなな」的な世界だな、と思っていました。こちらの作品は、年代的に、吉本さんとほぼ同時期に発表された漫画です。ですので、おふたりの感性と言うか、いわゆる世界観が似ているのかもしれません。

 

主人公の女性のリリック(詩的)な語りや、タフに構えて繊細なところ、ちょっとご都合主義な展開の裏にある超絶切ない感じなどが、岩舘さんの場合はセリフのないコマで、吉本さんの場合は比喩的な描写で、際立ってくるような気がします。

 

『白河夜船』の文章には「静寂」を感じます。

 

岩舘さんの漫画は、北海道の作家さんらしく、北国や雪国が舞台だったりして、そのためか雪の描写も多く、雪の夜のしーんとした感じ、キーンと冷えて静かな感じが、漂っているように思います。やっぱり、とても静か。

 

ともあれ、吉本さんの作品はデビュー作の『キッチン』からすでに「完成されている」感じがしました。なにかもう、わかりみが深すぎて「なんならずっと前から読んできた」気すらしていました。そして自分が年を取っても、いつ読んでも「懐かしくて、新鮮」な気持ちを味わえるのがとても不思議です。

 

しかし正直なところ、『白河夜船』以後は、そこまで印象的な作品に出会っていないように思います。いわゆる「ばなな節」というか、吉本さんらしい文章とお話の展開に、馴染んだ安定性を感じながら、どこか、スピリチュアルに傾きすぎな気がしてしまうのです。

 

不思議な話や、シンクロ。お告げみたいなことや、夢の中の話。

予定されたような運命、出会いの神秘。

シンクロニシティや、見えない世界の働きかけ。

 

大好きです。大好きだし「わかる」と思うのですが、「ファンタジー」ではない世界の「ファンタジー」に、違和感を感じてしまうことが増えていきました。

 

それで少し、離れてしまいました。

 

でも時々、吉本さんの描いた「場面」や「セリフ」を、まるで切り取ったようにふっと思い出すことがあるのです。

 

飛行機の中は死に近いところにいる、とか(これは何かのエッセイ)。

 

眠りに憑りつかれたような主人公に「いますぐ、駅に生きなさい。仕事を探しなさい。体を動かしなさい」と夢のあわいに忠告してくる、愛人としてつきあっている彼の(植物状態で寝ているはずの)妻のセリフとか(『白河夜船』)。

 

考えすぎて(風邪をひいて)熱が出て、でも髪を洗ってドライヤーで髪を乾かしているシーンとか(『ムーンライト・シャドウ』)。

 

車の中で寝てしまって「時間をすっとばせて」ラッキーと思う場面とか(『白河夜船』)。

 

ゲーム(懐かしいファミコン時代)のコントローラーを持ったまま志半ばでこときれたように眠る人だとか(『夜と夜の旅人』)。

 

どうしようもない男にひっかかって、罵りあいながらも親密になる二人の女とか(『ある体験』)。

 

美味しいカツ丼に出会って、タクシーを走らせ好きな人にカツ丼を届けるとか(『満月ーキッチン2』

 

本筋とは関係のない、どうということもないシーンもあるのに、なんでこんなに覚えているのかと思うくらい、心の深い場所に根付いてます。

 

意識して覚えたものは一つもないのに、そしてそれがそんなに好きだったわけでもなく、繰り返し読んだわけでもないのに、ほんとにあるとき「ふっ」とやってくるんです。「ふっ」と。

 

きっと吉本さんは、何かの種を持っていて、それを人の心に撒くんじゃないかと思います。やはりそれこそが、「文学」の証(あかし)。時間が経ってから、花が咲くように(バナナの実がなるように?)立ち現れるものがあるのです。

 

『キッチン』の文庫版のあとがき(2002年)に、吉本さんは「この小説がたくさん売れたことを、息苦しく思うこともあった」と書いています。時代の波に翻弄されて、生き方にまで侵食してくるようだった、と。そして感受性の強さを持て余す人々に向け、この世も、生きることも、そう悪いことではないよ、と、せめて死を考える人が少しでも踏みとどまることがあればと思って書いた(本文ママではなく、要約)、と書いてらっしゃいます。

 

 

「ねえ、鞠絵。わたしたちのこの一年間は不思議だったよ。人生の流れの中で、ここだけ空間も、流れも違う。閉ざされていて、とても静かだった。後で振り返ってみたら、きっと、独特の色に見える、ひと固まりの。」

(中略)

「こういう、濃いブルーよ。目も耳もすべてここに集中してしまいそうな、閉じ込められた夜の色よ。」

                          (『夜と夜の旅人』より)

 

 今回読み返して、改めてこのシーンが心に残りました。

 

 この言葉が出てきた背景は、恋人の死、兄弟の死という大きな喪失なのですが、昨年来の自分の心情にもぴたりとはまる言葉でした。主人公は兄の恋人だった女性に、兄の死を過去としてこの言葉を発しますが、おそらくふたりの心の中では終わったことではなかったはずです。だからこそ、響く言葉でした。

 

 現代の私たちも今、大きなものを喪失していて、深い夜の濃いブルーの中にいるのかもしれないな、と思います。