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100年前を文学の横軸で考える【1920年代の東京 高村光太郎、横光利一、堀辰雄/岡本勝人】

 

 1920年代に興味を抱いてから、3年になる。

 コロナ禍になってすぐ前回のパンデミックであるスペイン風邪が話題になり、それがちょうど100年前だったことを知った。

 

 現在東京都美術館で「エゴン・シーレ展」が開催されているが、オーストリアの画家シーレもスペイン風邪で亡くなった有名人のひとりだ。

 他にも、同じオーストリアの画家クリムト、以前ブログを書いたプロシア(ドイツ)のマックス・ヴェーバーやフランスの詩人アポリネール、日本では島村抱月などが、かの病で命を失った。

 

全世界を巻き込んだ流行性感冒(インフルエンザ)は大正七年(1918年)秋ごろ我が国に波及し、以来大正十年(1921年)春まで継続的に三回の流行があり、総計約2380万人の患者と約38万8000人の死者を出し、疫学上まれにみる惨状を呈した。当局は毎回の流行に対し、常に学術上の知見と防疫上の経験をもとに最善の努力を行い、予防に努め、あるいは防疫官を海外に派遣して欧米における本病予防に関する対策の実際の様子を視察させ、また特に職員に命じて予防方法の調査に従事させ、一方でまた学者や実地医家の意見を聴くなど、本病予防の上で少しでも漏れ残しのないようこころがけた。思うに本病の予防方法はなお今後の学術的研究の進展をまつ必要があるとはいえ、このたびの流行における経験は、今後の参考資料としての十分な価値を持つはずである。

                 大正十年(一九二一)十二月 内務省衛生局

        (『現代語訳 流行性感冒』kindle版 平凡社 前書きより抜粋)

 

www.heibonsha.co.jp

 スペイン風邪の患者数は「世界人口の25-30%(WHO)、あるいは、世界人口の3分の1(Frost WH,1920)、約5億人(Clark E.1942.)」(国立感染症研究所Q&Aより)で、死亡者数は2000万人から4500万人(一説には1億人)と言われている。

 日本では約2300万人の患者のうち死者数38万人とも45万人ともいわれているが(上記データより。調べ方によって違うらしい)、スペイン風邪が終息した原因は定かではなく、集団免疫を獲得したからとも、ウイルスが弱毒化したからだともいわれているが、確証のある資料はないようだ。そもそも、発生地はアメリカと言われているが、中国説もあるらしい。第一次世界大戦により、世界に広がった。

 

ちなみに、コロナ感染症の今現在のデータはここでわかるようになっている。

covid19.mhlw.go.jp

vdata.nikkei.com

 

 まだ完全に終息したとはいいがたく、変異も予断を許さない状況ではあるが、流行は落ち着いてきている。

 

 スペイン風邪と比べ、罹患者は多いが死者は少ない、と言う人もあるだろうが、スペイン風邪当時の人口は今の1/4の約20億人。罹患率は想像を絶する。そもそも、インフルエンザとコロナのウイルス自体も違うし、様々な要因を考え合わせて単純に比べられるものでもない。「○○のおかげ」だとか、「何とかのせい」だという気もない。

 とはいえ、それは『現代語訳 流行性感冒』の「このたびの流行における経験は、今後の参考資料としての十分な価値を持つはず」というひと言に表わされるように、人類が着実に経験を活かし学んでいた、ということだと思いたい。

 

 特定の場所で起こる集団感染「アウトブレイク」からさらに広域になり、最初のコミュニティより広い地域に拡大すると「エピデミック」になる。それでも「エピデミック」はまだ一部地域に限定だが、国境を超えてさらに広範囲になると「パンデミック」と呼ばれる。

 

 歴史の中で記録上最初のパンデミックは「天然痘」だったと言われる。黒死病と恐れられたペストは「エピデミック」を各地で繰り返した。腸チフスやコレラなどもエピデミックを起こしたが、以前は国境を越えて広がるのは陸続きの地であって、海を越えた場所にまで同時多発的にひろがることはなかった。

 しかし、飛行機などによって移動が迅速になり、グローバル化が進んだことに寄り、「アウトブレイク」があっという間に「エピデミック」になり「パンデミック」になる時代になっている。

 

 スペイン風邪から100年後に起こった今回のパンデミック。

 

 歴史は繰り返す、という歴史の周期性を感じたからと言うのでもないのだが、なるほど、世の中の動きがなんとなく「それらしく」動いているように感じられ、それ以来、100年前の1920年前後の世界に強い興味を持つようになった。以来、1920年前後の人や書物に関した本を読んでいる。

 

 マックス・ヴェーバー、アンナ・ハーレント、森鴎外、菊池寛、与謝野晶子、リルケなどなどまるでリレーするように名前が出てきたところから読んでいったが、ちょっと待てと思った。1920年代は日本の近代文学が急激に花開いた時代だし、それはパリの華やかなりしサロンの時代に繋がっている。

 ちまちま読んでいたらきりがないのではないか、と思っていた矢先にであったのが、この本『1920年代の東京 高村光太郎、横光利一、堀辰雄/岡本勝人』だった。

 

sayusha.com

 

 私と同じように100年前に興味を持ち、論じている本はないだろうかと思っていたので、全くのドンピシャだった。著者岡本氏は、1916年に夏目漱石が、1922年に森鴎外が世を去ったことは、明治文学の終焉を意味していた、と言う。そして1920年代と言うのは新しい文学や時代の萌芽の狭間にあって混沌とした特別な時代であり、その断層は関東大震災にある、と続ける。

 

 岡本氏は関東大震災と3.11に近似性を感じ、疫病、戦争、地震といった災害や人災においても、時差はあるものの世界の政治的、思想的なうねりにもどこか共通する部分を感じているようだ。それも、私の考えていたことと一致し、なるほどと思いつつ読み進めた。

 

 岡本氏は、19世紀末が1920年代まで続いていたのだ、と言う。エントロピーが増大しカタルシスを迎えるように関東大震災が起こり、震災を境にその前後で時代が変わり、いずれ帝国主義へとつながった起点があると見ていて、そこを読み解くのに「社会の崩壊と停滞を生きながら、失われた詩(ポエジー)を取り戻す作家や詩人たちの進取の営為があった」ことに注目している。

 

 かつて作家はマルチな文芸のなかのひとつの形で、作家の中には詩人も批評家も内包していた。俳諧などから出発した作家も多く、高村光太郎は造形や書にもその芸術の枠を広げていた。今のように、ほぼ「分業制」のようにはなっていなかった。文芸は芸術の中にあり、そこには絵画も組み込まれていた。当時の作家や画家たちは洋行し帰朝することで、ただ文化文明を持ち帰るだけではない、相互交流をしていた。現代のわれわれが思うよりずっと、彼らは対等でグローバルだったように、この本では描かれている。

 

 それにしても驚くべきは、その人と人とのつながりだ。

 今でいうSNSネットワークのようなつながりが、同人誌(たとえば『白樺』など)や同郷、血縁といった繋がりから生まれているのに驚いたし、私は知らないことばかりだった。

 昔は、どんなに遠くにでも、会いたい人には訪ねて行ったし、友人知古をたどってたどり着いたり、弟子入りするなどして「繋がって」いた。もちろんそこには「家格」のようなものも存在し、目に見えないヒエラルキーは存在している。地方から突出しその名を広めるような人には、やはり郷里の実家の後ろ盾があってこそだ。

 

 例えば初代横浜税関長有島武を父として、有島武郎を兄、弟に里見淳をもつ有島生馬という画家の事を、私は知らなかった。いや、絵は知っていた。でもそんなつながりがあったなんて全然知らなかった。有島生馬は、日本で初めてセザンヌを紹介した画家だ。志賀直哉武者小路実篤は彫刻家ロダンに浮世絵を三十枚買って贈り、そのお礼にロダンからブロンズ像を贈られている。その頃ロダンの近くにはリルケがいた。高村光太郎はリルケと同じ宿を定宿にしていたらしい。高村光太郎は、ロダンの死後、ロダンの追悼記念に『ロダンの言葉』を翻訳している。

 

 そんなつながりが、次から次へと繰り出される。続々と有名人・著名人の名前が出てきて、それが友人知古だったり、師弟関係だったり、この人たち親子だったのかと繋がっていく様に驚嘆した。

 

 「新宿中村屋」の相馬愛蔵と黒光夫妻の「中村屋サロン」の話にも驚いた。サロンには外国からの亡命者も多くいて、ロシアからの亡命者や、ウクライナの詩人エロシェンコ、エロシェンコを描いた中村彜、建築家のブルーノ・タウト、そしてインドの独立革命家ラス・ビハリー・ボースがいた。彼は黒光の娘と結婚していて、「中村屋カリー」のルーツの人物だという。先日「RRR」を見たばかりの私には二重にびっくりだ。

 

 大正時代の文学史を、こうしたつながりからの視点を交えながら丁寧に紐解いていくこの本は、なかなかに衝撃だった。谷崎潤一郎芥川龍之介などの有名なところから、今ではそれほど名前を聞かないが当時粋を競った数多の文学者の名前が名を連ね、宮沢賢治についても深く掘り下げてあって嬉しかった。

 

 私が大学で賢治について卒論を書いた当時は、テキストクリティークが主流でテキストを深掘りする論文が多くを占め、世界と照らし合わせた賢治の位置情報を知らしめるものがなかった。せいぜい、吉本隆明を読むことくらいしか手立てがなかった。正直、卒論に書いたのに、智恵子を亡くした高村光太郎が宮沢賢治の死後、宮沢賢治を訪ね、岩手の奥に引きこもりのように住んでいたことを知らなかった。

 

 これまで、こんな形で歴史を横の広がりでとらえたことがなく、そういう切り口の歴史を知りたいと思っていただけに、人と人とが歴史を織りなしていたことを実感できる本だったし、文学というものが担っていたこと、背負っていたこと、また功罪も、余すところなく書いてあった。

 

 このところあまり注目されなくなった高村光太郎、横光利一、堀辰雄に焦点を当てたのはその横糸を「詩」で繋いだからだ。堀辰雄の項では少し、著者の情熱のあまりか若干、くどく感じたような部分もあったが、それにしても、たくさんの「未知」に出会うことができた。

 

 特に重大な断層を、著者は「関東大震災」ととらえていて、それ以前のスペイン風邪パンデミックにはさほど大きく触れられていないが、私はこの疫病の災厄も、文学者や画家に大きくかかわったことだろうし、その影響も少なからず受けていただろうと思っている。シーレなどはスペイン風邪というインフルエンザによって、「家族像」を描いた後、妻(恋人)とお腹の中にいた子と自分…つまり一家全滅しているのだ。

 

 ただ、昔は疫病というものはたびたび起こるものであり、それによって被害が出ることに対しては「仕方がない」と受け入れていたのではないか、と推察する。

 当時はようやく予防接種などが一般にも普及し始めたころで、公費で予防接種をするようになるのは戦後(1948年)の事だ。幼児は死ぬのが当たり前で、少しでも生き残る子供を産むために女性は生涯に10人近くの子供を産むことも少なくなかった。

 

 少なくとも疫病が「人間の力で防げるもの」という感覚はなく、「できるだけ避ける」といった予防策しかなかっただろうと思う。

 

 『現代語訳 流行性感冒』の扉絵には当時の予防喚起ポスターが掲載されているが、今と全く同じだ。手を洗う、マスクをする、予防接種を受ける、咳エチケット、混んだ場所を避けるなどのポスターがいくつか載っている。しかし、予防接種に関しては、経済的な面で受けられる人も少なかっただろうし、過去の疫病を思えば、それこそアマビエや神様などに縋るほかなかったに違いない。かかってしまったら「運が悪かった」「それが天命だった」と思うほかなかったのだろうが、生還できる人も多かったし、免疫を獲得することで罹患しづらくなることもあり、地震という巨大な災害とは違うイメージでとらえていたのではないか、と思う。

 

 少し、話がそれた。

 岡本氏の本質的な論旨からも離れてしまったが、長くなるのでこの辺にしたい。

 

 100年前を考えることは、今と、100年後を考えることでもある。

 原爆記念の日に、noteにこう書いた。

 

note.com

 

  この本を読んで、まだまだいろいろな本を読みたくなった。読んでいなかった近代文学の先達たちの本が山ほどあった。そして、これからも100年前のことと今を学びたいと思った。