みらっちの読書ブログ

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ハウの選択【川のほとりの大きな木/クレイトン・ベス】

 

こんにちは。

みらっちです。

 

今日の本はアメリカ人のクレイトン・ベス氏の児童書です。

友人のサツキさん(仮名)からお借りしました。

 

douwakan.co.jp

 

タイトルと、天然痘を扱っている本だという情報はどこかで耳にしたことがあったように思うのですが、詳しい内容は知りませんでした。クレイトン・ベスさんが1970年ごろ、アメリカ政府の平和部隊としてリベリアで聞いた実際の話がもとになっているそうです。

 

ネタバレがありますので、気になる方はここまでで。

 

 

 

 

 

 

さて、訳者あとがきを読んで、リベリアという国の成り立ちについて知りました。

 

1807年、イギリスで奴隷売買禁止法が成立し、1816年、アメリカで人道的支援の機運が高まります。88人の奴隷が解放され、西アフリカの沿岸部に入植したのがリベリア(libertyに由来)という国の始まり。

 

この成り立ちは、植民地支配からの独立を目指した他のアフリカ諸国とは違う、特殊な成り立ちだったと言っていいと思います。

 

入植した人々は、奴隷の中でも比較的恵まれた人々で、アメリカの文化や教育の影響を強く受けていた、とあとがきには記されています。そのため彼らは、今度はもともとその地にいた部族の人々を差別的に支配していった、と。

 

なるほど、私はこのことを知らずにこの本を読みましたが、知っていたらまた違う見方をしたかもしれないなと思いました。それで、二度三度、読みました。

 

本自体は、分厚くはなく、ものの何十分で読み終えることができます。

児童書ということもあってわかりやすい語り口で、読みやすいばかりでなく、驚くほどそぎ落とされて無駄のない文章で、豊かなリベリアの情景が描写されています。

 

さて、この本の物語は、こんなお話です。

 

 

ある停電の夜、父親が子供たちに昔の話を話して聞かせるところから物語は始まります。

 主人公は少年時代の父親、モモ。幼い妹ミアッタと、母と、目の悪い祖母と一緒に、村はずれにある彼らが「じいさまの木」と呼ぶ大きなポプラの木のある川べりに暮らしていました。モモの父は既に亡く、裕福な家ではありません。

 ある夜、その家に年老いた女とその娘が、生まれたばかりの赤ん坊を連れて現れます。もう夜も更けて怖いので泊めてほしい、と彼らはいいました。赤ん坊の具合が悪いようで、かつて天然痘に罹って目を失ったモモの祖母は病気を警戒して反対しますが、慈悲深い心の持ち主だった母ハウは彼女たちを泊めてあげることにしました。

 翌朝、赤ん坊を置き去りにして女たちはいなくなっていました。赤ん坊が天然痘であると分かって、母と祖母は口論になります。祖母は赤ん坊を捨ててくると言い、母は自分は教育を受けたからまだ生きている命を見殺しにはできない、と言います。結局祖母が折れ、母は天然痘に罹った赤ん坊にシアッタと名付け、世話をすることにしました。

 川向こうの親戚に助けを求めますが、なんと彼らは、最初に彼らの村に来たあの女たちを、モモの家に向けて追いやったという事実がわかります。それでも彼らは、罪悪感も手伝って、川向こうのモモの家に物品や食品の援助をしてくれました。

 モモとミアッタは赤ん坊と母親から遠ざけられていましたが、そのうちにミアッタが発症し、モモも発症します。モモが罹患した時には叔母ムスが手伝いに来てくれました。しかしそれもむなしくミアッタは死亡。モモは闘病し、なんとか元気になってきたころ、すでに母もり患していたことを知ります。

 置き去りにされた赤ん坊のシアッタは回復しましたが、母はどんどん悪化し重症となります。体中にあばたを残し左目を失明したものの、なんとか一命をとりとめました。

 母ハウが回復してきたころ、赤ん坊を置き去りにしたふたりの女のうち、年老いた母親のほうが赤ん坊を返して欲しいとやってきました。昂然と追い返す祖母。「赤ん坊を置き去りにしたあなたのものは、赤ん坊と一緒に死んだ」と母は言います。シアッタはモモの妹になりました。

 ハウの容姿はひどいことになってしまいましたが、みんなが回復して街の市場に行ったとき、別の部族の女性に出会いました。彼女はハウの傷跡に触れ泣きながら「あんたの心のひとかけらをもらっていくよ」と言うのでした。

 

 

 実際に、この本を何度か読むと、たくさんの問題が絡みついているのがわかります。

 

 ひとつは、「ハウの選択」。

 天然痘に罹っている赤ん坊を、彼女はなぜ救おうとしたのか。

 それについては、母ハウ本人も、わからないというばかりです。

 ただ、「病気がわからないうちに子供二人と遊ばせてしまった。もし赤ん坊を豹に食べさせるか何かで殺したとして、殺した後で自分の子供にすでにうつっていたことがわかったら、その赤ん坊を殺してしまったことがただの無意味な出来事になってしまう」と彼女は言います。

 もし、同じ立場になったとしたら、自分だったらどうするだろう、と思う、究極の選択です。

 

 もうひとつは、宗教の問題。

 モモは賢い子で、勉強が好きでした。そのため「聖書」という本が読みたくて、母と祖母にせがんで教会に通っていました。とはいえ彼はキリスト教徒というわけではありません。しかし村の牧師は村人を啓蒙し、ほとんどが信者となっています。そこでは牧師と牧師夫人が力を持っていました。彼らの決定は村の決定でした。

 モモの家がその村から外れた場所に住んでいたのも、ひょっとすると信者にならなかったからの村八分だったのかもしれません。祖母はキリスト教徒を毛嫌いし、ハウも聖書を好みませんでした。あるいは、発端はその逆だったのかもしれません。たとえば天然痘などの伝染病によって彼らを村八分にしたから、彼らは信仰を捨てたのかもしれません。

 彼らの心のよりどころは大きなポプラの木や古くからの言い伝えでしたが、善良なはずのキリスト教徒は団結してモモの家に天然痘患者を送り込んでいます。良心というものと宗教や信仰が必ずしも結びつかないということを示唆しているようにも思えます。

 

 最後に「天然痘」。

 停電の夜に子供たちに語り掛ける父親=モモは、昔のことを語りかけながらいいます。

「天然痘は永遠に無くなったと言われている。世界のどこにも天然痘はないそうだ。お前たちのような子供が、予防接種を受けに行く必要もないという。だけど、本当だろうか?様子を見てみよう。時間をかけて」

 

 また、モモの母は赤ん坊の世話をしながら歌を歌います。

「天然痘は見えない。

 天然痘は触れない。

 天然痘は匂わない。

 天然痘は、モモが吸う空気に浮かんでる。

 天然痘は、ミアッタが飲む水に泳いでる。

 天然痘、おまえはどこにいるの?

 ここには、こないでね」

 

 母の思いもむなしく、結局かつて天然痘にかかった祖母以外の全員が罹患することになり、拾い子(シアッタ)は助かり、実の娘(ミアッタ)は亡くなりました。

 

 天然痘は、人類が撲滅に成功した唯一の伝染病だと言われています。

 日本人医師・蟻田功氏が率いた天然痘撲滅プロジェクトが、世界の天然痘を終わらせ

た、とされています。

 

 この3年間の未曽有のパンデミックを経験した私たちはもう、生きている限り日々、新たなウイルスや菌の脅威にさらされていることを知っています。実際に、天然痘に似た「サル痘」なども地域的な流行を繰り返しているようです。

 

 本書の中で、ポプラの木の下で苦しみながら横たわるハウに、牧師の妻は、そんなにひどい天然痘にかかるのは何かひどい罪を犯したからだ、なぜ罪の告白に来なかった、自分が良くなっていることを神に感謝しなさい、神は慈悲深いからどんなにひどい罪でも許すのだ、と説教に来ます。

 実際、天然痘患者をハウのもとに送り出したモモの叔母ムスは、一家の看病をしてもり患しませんでした。それを、信仰心のせいだという夫人。

 そんな折も折、ちょうど赤ん坊を捨てた老婆が来て、赤ん坊を返せと言います。

 その老婆を「あの赤ん坊はハウの子だ」と言って追い返すのも牧師夫人なのです。

 

 伝染病という大きな災厄に対し、果たしてどんなやり方をするのが正しいのでしょう。病に対し、人に対し、我々はどんな態度で臨むべきなのでしょうか。

 

 牧師夫人のしたことも、彼らにとっての良心に恥じることはないのでしょうが、信仰が同じグループの態度は、自分のところだけを守って異教徒を含む他のひとがどうなろうと知ったこっちゃない、という態度に受け取れます。

 

 自らの命も顧みず、自分の娘を失ってまで、病と闘ったハウ。

 そんな母を見て育ったモモは、宗教と信仰、教育と良心について、一方だけがよいという立場をとりません。

 

 話の中で、あのポプラの大木が道路を作るために人間の手によって切り倒されたということが明らかになります。

 

悪も善も、人の心なんだよ。それは、その人の心にもとづいてすることなんだ。それが悪であっても、善であってもね。それがすべてなんだよ。

 

 深く心に刺さります。