はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」
はてな20周年ということで、おめでとうございます。
記念のインターネット文学賞が開催されるとのこと。
インターネット文学。
公式さんによれば、その定義は明確にせず「インターネット」や「テキスト文化」に関する内容ならどんな文章でも、とのこと。
なるほど現在、インターネット発の小説が書籍化したり、それが映画・アニメ化されたりということが、まったく珍しくなくなり、ブログ小説などが電子書籍化して売買され、すべてが「ネット上」ということが、当たり前になりつつあります。
「ネット」では誰もが文章を発信できて、誰でも読むことができます。承認欲求や顕示欲を満たし、他人に「影響(インフルエンス)」を及ぼし、うまくいけばお金を儲けることができる場所でもあります。
反面、それはすぐに廃れ、無くなり、消え、「今はもう読むことのできない記事」があり、「更新されることなく放置されたブログ」があり、「時折生前のブログを訪れて亡くなった方を偲ぶ」こともある場所です。
そこが楽園なのか、戦場なのか、墓場なのか。
紙媒体・紙文化のなかで育った私にはわかりません。
「”わたしと”インターネット」であれば、食事の注文からワクチンの予約まですべてがインターネット頼みの時代には「もうどうしようもない」としか言いようがありません。正直ここまでくると「インターネットなし」で生きていける自信がありません。
「インターネット文学」というものに関してなら、そもそも「文学」の定義が揺らいでいる昨今、インターネット時代の文学を自分なりにも定義しようとすると大変難しいことになりそうです。
そこで、この機会にインターネット上における「文章の特性」を考えてみようと思います。
即時性
歴史を振り返れば、書物に触れ学び、「文字を読み、書くことができる」ことは特権階級にしかできないことでした。庶民の誰もがある程度読み書きできるようになったのは近世になってからです。書物が誰かの「手」によって書かれ、それが誰かの「目」に届くまで、どれほどのタイムラグがあったか、はかり知れません。
インターネットはすべてが瞬時です。「書籍になって、それが出版されて、だれかが買って、読んで、感想を添付はがきで送る」時代に比べたらものすごい速さで文章を発表することができ、多くの人が読み、すばやく反応をもらうことになります。「書きたい」と思ったときにはもう!書いたものがすでに人の目にさらされているんだ!という状態と言っていいと思います。LINEなどは相手が既読したことがわかるようになっていて、手紙を出して「もう届いたかな、読んだかな」というのがありません。
このスピード感は魅力でもありますが、承認欲求を刺激し、中毒性のある危険なものでもあると感じます。
公開性
投稿すれば誰でも読むことができるのは、画期的です。
日記や手紙、記録、詩、文学作品などを、自分の手で公開できます。記録として振り返るときにネット上に存在しているのは便利な反面、日記などは後年恥ずかしくて穴があったら入りたくなることもあるかもしれません。手紙のように相手がある場合は、迷惑が掛からないよう配慮することが必要です。
個人的な記録でうっかり現実世界の身元が判明してしまうかもしれない危険要素はあるにしても、少なくともこれほど不特定多数の人々に自分の書いたものが読まれる時代はありません。市街で同人誌を配ったってこんなに読んではもらえません。
創作物をどこかで発表したいと願う人々にとっては、まさに革命的なしくみだと言えます。
共感性
自分の好きなテーマが一部にしか知られていない、多くの人が好むものではない、ということがあります。たとえ有用で人の役にたつ情報を持っていても、発表の機会が無ければ興味を持ってくれる人もいません。
しかしひとたびネット上に公開すると、世界中の「同じ専門性をもつひと」「同じ趣味をもつひと」とつながることができます。理解者がいなくて寂しかった日々が、ネットによって突然、賑やかなコミュニティができる。これは魅惑の特性だと思います。
気に入ったブログを楽しみにして、いつのまにかそのブロガーさんのことに詳しくなっていて、遠くにいて全く違う人生を送っているのに、身近に感じられる。気がつけば、そこは自分の孤独を癒す場所になり、「居場所」になってしまっている…
リアルで「オフ会」につながることもあるかもしれませんが、現実社会で傷つき疲れた心を癒す場所としても機能すると思います。
匿名性
ネット上の名前は、架空であるけでなく、もはや名前の体を成していないものでも受け入れられています。その名前がその人のどういった部分を説明しているのか、わかりやすいものもあれば、想像のつかない名前もあります。
書籍の発行に際しては、昔から「ペンネーム」というものを使っていましたし、「俳号」や「雅号」などもあります。
ネット上での「ハンドルネーム」は、その自由度が格段に跳ね上がっていると思います。ネットの人物と自分を切り離すためにも、それは有効な手段だと言えますし、それだけネット世界がリアル社会とは断絶しているという証明かもしれません。
まとめ
ここまで、インターネットには即時性・公開性・共感性・匿名性に特徴があり、いい面と残念な面があることをみてきました。
「公開性」と「匿名性」は、矛盾するものです。この矛盾を抱えていると言うことが、インターネットで文章を発信することの最大の特徴ではないか、と思います。
見てほしいが、隠したい。さらけ出したくないが、仲間が欲しい。という矛盾をはらんでいるのが、インターネット文学なのではないか、と。
先日ちらりと視たテレビでオードリー・タン氏がインタビューに答え「人間のネット上での人格とリアルでの人格が違うことから、ネット上のコミュニケーションについて研究している」と言っていました。
人にはそれぞれペルソナがあって、ネットでの顔と、リアル社会での顔、家族との顔、プライベートの顔とが違うことは大いにあり得ることだと思いますが、オードリー氏は、ネット上の顔についてもう少し踏み込んだ問題点を突いているような気がします。
たとえば「車を運転するときに人格が変わったようになること」とどこか通じるというか。何かを「操作している」ときに別の自分になるということは、ちょっとペルソナとは違うんじゃないかという気がします。
ペルソナというのは心理学用語で、大雑把に言うと他人に対して見せる、装った顔です。しかし「車に乗って人格が変わる」というのは、そばに他人がいなくても、態度や倫理観に変化が起きます。オードリー氏が言っているのはそういうことなのではないかと思われます。
「人がみていない」「自分も知らない」ジョハリの窓的な側面、つまり盲点が、ネットとリアルのギャップに露呈しやすい、ということなのではないかと思うのです。
インターネットで文章を書く、ということは、アバターのようなもうひとりのメタな自分をネットの世界に作り出す作業なのではないかと思います。リアルでも虚構でもない、そこにしかいない「私」を作る作業なのかもしれません。