みらっちの読書ブログ

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『本は、これから』から約13年経った今、本は【本は、これから/池澤夏樹編】

 

 

 こんにちは。みらっちです。

 

 私の友人の金森なごみさん(仮名)の息子さんは、息子と同い年の高校1年生です。

 仮にヒカルくんといたします。

 彼は私がこの「はてなブログ」を始めたころから私のブログを読んでくださっている、稀有な存在です。母のなごみさんが記事の更新に気がつかないと「あ、今日みらっちnoteで/はてなで書いてたよ」と教えてくれるのだそうです。

 私にとっては実に尊いお話で有難いばかりなのですが、柔らかな心が育っていく時期に、ワタクシなんぞの文章を読むのはいかがなものかと心配になります。彼は理系男子で、どっぷり文学といった文章より、私のような軽めのタッチの文章の方が馴染みやすいのだそうです。

 

 さて、そんなヒカルくんがある日「みらっちにおススメの本を見つけた」と、母なごみさんを通じて教えてくれたのがこの本です。なんでも現代文の問題集の中に入っていた文章だったとのことで、問題集を解きながらみらっちを思い出してくれたかと思うと感無量です。

 

 『本は、これから』池澤夏樹編/岩波新書

www.iwanami.co.jp

 

 誰あろうヒカルくんが推薦してくれる本ならもう読むしかありませんが、Amazonでも中古でしか手に入らないようだったので、図書館に予約を入れました。図書館でも意外に待たされ、ようやく昨日、手元に届きました。

 

 この本は今から20年ほど前の2010年、ちょうどkindleの端末が市場に出回り、いよいよ電子書籍が普及する時代になって、これからの本や本をめぐる業界や人々がどうなっていくのか、と戦々恐々としていた年に出版されました。紙の本と電子書籍の未来を考えるエッセイをそれぞれの立場から寄稿するという趣旨のもと、池澤夏樹氏が編集しています。

 序文を池澤夏樹氏が書き、吉野朔美さんという漫画家さんが冒頭に「電子書籍時代」という漫画を寄せています。そこに描かれた未来の親子の姿は、本の刊行から13年が経過した現在を見通していたかのようです。小学生がiPadやkindleを持って学校に行き、でもいじめはなくならず子供はiPadを破壊され、彼の父親は電子書籍しか読まない妻に秘密で貴重で高価な紙の本を入手してほくそえみ、iPadしか入っていない軽い鞄で通学する息子の体力が落ちないか心配する、という漫画です。微妙に大袈裟にも感じますが、当時における本の未来へのイメージがよく表れていると思います。

 

 内田樹氏、上野千鶴子氏、五味太郎氏、長田弘氏、池上彰氏といった、学者や文学者、絵本作家、詩人、ジャーナリスト、ノンフィクションライターといった文章を書くことを生業とする面々(個人的にはこの本から数年後に亡くなった長田弘氏や個人的なファンである最相葉月氏が入っていたのが嬉しかった)のほか、古書店や書店の店主(それも老舗から大型書店までいろいろ)や元書店員など本を売ることに関わる人々、編集者や装丁デザイナー、造形作家、写真家、など本を作ることに関わる人々、地方図書館や国立国会図書館の館長、音楽家や総合コンテンツをプロデュースするスタジオジブリの鈴木敏夫氏、電子書籍に早くから関わって道を拓いてきたボイジャーの萩野正昭氏などがエッセイを寄稿されていて、それぞれの立場や自分の趣味嗜好を反映していて実に多彩です。ヒカルくんの読んだ問題文は、グラフィックデザイナーの原研哉氏の「大量発話時代と本の幸せについて」という文章でした。

 

 主な観点は「紙の本は残るか、無くなるか」というようなことだったと思います。時代の変化を受けて共存していけばいいとする人もいれば、電子書籍万歳の人もいるいっぽう、あまり関係ないねと客観的立場を取る人もいました。しかし中でも多かったのは、電子書籍など所詮は玩具みたいなもので紙の本が至上であると紙の本に執着する人々です。なんにせよ、未来のことを考えているわけですから、主張の良し悪しはないと思いますが、なにより全体的に印象深かったのは池澤氏が冒頭で「みんな本を愛している」と言った通り、本という存在そのものが人に与える影響の大きさです。そしてまた、本と言うのは非常にフェティッシュな存在であるということも強く感じました。偏愛したり、コレクションしたりといった執着を引き起こす何かが、とくに紙の本にはあるようです。

 この本の中でも、利便性や携帯性など多くの部分を電子書籍に譲っても、紙の本は稀覯本として残り続けるであろうと喝破した人も多くいましたし、全体的には「紙の本は消えない(消えて欲しくないという願望も含めて)」という意見が大勢でした。

 

 人生において、教科書を含め、本とまるで無縁に生きてきた人はおそらく誰一人いないと思います。デジタルネイティブと呼ばれている世代にとっても、まだそれは変わらないと思います。

 現在、リテラシーと言う言葉は、本来の「識字」といった面ばかりではなく、理解して活用できるといった読解力まで含んだ範囲で用いられることが多いように思いますが、かつて『AIvs教科書が読めない子供たち』で話題になったように、読解力を含めたリテラシーは低下しつつあると言われています。確かにこの『本は、これから』の寄稿者に多かったのは、電子書籍の登場によってこうした能力が揺らぐのではないか、という懸念でした。

 

 また、そういった「読む側」「人間の能力」の問題だけではなく、電子・紙を含めた日本の出版システムそのものを心配する声もありました。つまりGoogleやAmazonといった外資企業によって、ただでさえ斜陽傾向のあった出版業界が脅かされていくのではないか、というものです。日本が日本語の出版物に特化していくだけでは、本来の電子書籍の利点を生かしきれず、ガラパゴス化してITの進化に取り残されるのではないかと言う危機感を感じている人もいました。

 

 2023年現在、あれから13年ほど経って、本をめぐる状況というのは実際にどんなふうに変わっているでしょうか。

 震災があり、コロナ禍を経て、各地で戦争がはじまり、日本にとって、また世界的にも劇的といっていいほどの変化を遂げた13年です。

 さすがに2023年に書いたのではと思うほど千里眼的に見通していた人はいませんでしたが、かなり近い形を予想していた人はいたように思います。

 

 本屋は大型書店も含めてバタバタと潰れていたり経営難となっていますが、未だに存在しています。2004年に始まった本屋大賞もまだ続いていますし、なんならむしろ、本屋大賞がベストセラーを生み出す構図になっています。

 電子書籍は確かにすそ野を広げていますし、コンテンツも豊富になりました。書く人はむしろ読む人よりも増えているようにも思います。それでも、紙の本が消えることはなく、紙の本は市場に溢れています。それでも、作家が作家としての仕事だけで食べていけるのはおそらく一握りでしょうし、電子書籍のシステムなど相当の部分をAmazonやGoogleといった外資企業に依存せざるを得なくなっているハード的な脆弱性も確かにあるように思います。それに対抗しうる国内の需要と供給が広がっているようには思えません。デザインや印刷の中小企業や工場などでは税制(インボイス)の問題も浮上し、書く人も作る人も、非常に苦しい時代になっているのは間違いありません。

 それに追い打ちをかけるように2023年はいよいよChatGBTが浸透し始め、AIが文章や絵画を作成する能力が飛躍的に進化し、これはもはやシンギュラリティ―と言ってもいいのではないかと思うほどの状況になりつつあります。

 それに対しても、日本はすっかり置いてけぼりになっている様子ですが、そこはいかにも日本らしく「日本語としての精査能力」はメキメキと伸びているらしいです。そこのノウハウだけは先鋭化している模様です。

 「日本はぼんやり傍観しているうちに何となく流れに乗り、日本語のコンテンツに対しては素早くニッチに対応していくんだな」という印象です。

 今この文章を書いている上のバーにも「AIがタイトルを提案します」という文章が見えます。今、もし『本は、これから』と同じようなタイプの本を作るのなら、焦点はもっぱら「AIの書いたものVS人間の書いたもの」といったコンテンツの問題になるように思います。そんな本ならもう、たくさんでているようにも思えます。

 

 今私は、Amazonだけでなく、ロマンサー(上記に出てきた荻野さんの会社ボイジャーが経営している電子書籍プラットフォーム)やCalibreという無料互換ソフト、画期的なユニコーン企業Canvaが提供するオールパブリックドメインという無料で商用デザインを使用できるプラットフォームを利用して装丁をデザインし、1冊から文庫本をオンデマンドで印刷できるOneBooksという印刷会社で本を作り、それを共同書店の棚を借りる形で売るという従来には考えられなかった形で本を作り、売っています。

 

 私のように、従来の出版業界とは全く関係のないところで本を作り・読む文化は昭和の昔からあったものですが、明らかに製品の質は向上し、雑誌形式でもZINEなどかなり商用に近い作品を作ることができます。それはいわゆるフェティッシュな「紙の本」を愛する人々によって支えられているとも言えます。実体として触って眺め、読みたい、という人々です。

 近年「文学フリーマーケット」が規模を大きくしていて、今や1万人も集客するようなっているのもそういった「紙の本愛好家」と「書いたり出版したりするハードルが下がって誰でも書き手になれる」というニーズのマッチングが起こっているせいだと思います。2010年の知識人たちが看破した「稀覯本・レアな本」の需要が高まっていると思えば、紙の本は消えていないし、確かにフェティッシュなものになりつつある、と言えます。

 

 さてこの本を読んで印象に残ったのは、写真家の石川直樹氏の『歩き続けるための読書』と音楽家の菊地成孔氏の『半呪物としての本から呪物としての本へ』です。

 石川氏は、「電気がなくなったら電子書籍なんて読めない」「紙の本は高山でだって読めるからその自由さを愛す」と言い、菊池氏は「アジアでは本を呪物扱いするから消えないだろう。ただそれによってアレ読んでないと教養ないとかマウント取ってくる輩が多いけれど、電子書籍になれば世界のアーカイブがたちどころに読める状態になるし、老眼に対してもホスピタリティがあるし、いいことばかり。あらゆる本を全部読むことなんかできないのだから、読もうとすれば誰だって読めるという状態になれば、何をどのくらい読んだかなんていうのは無意味になる。マウントが取れなくなる。自分は音楽家だけれど楽譜はかなり電子化しておりそれが浸透してきていて、不便はない。それによって音楽の魂が失われるということはない。生き残った本は呪物化し床の間に飾るようなものになるだろう(かなり意訳しました)」という視点は本当に面白かったです。

 石川氏のエッセイからは、同じく写真家の星野道夫氏の『旅をする木』を思い出しましたし、菊池氏のエッセイを読んだら「まずい、虎杖くんは本を丸飲みしなくちゃいけなくなる」と呪術廻戦の心配をしました。笑

 

 そしてまた、夏に観た『ミッションインポッシブル/デッドレコニング PART ONE』の一場面を思い出しました。映画には「すべての情報に不正にアクセスできるAI」が出てきて、その対策のために政府があらゆる情報を「紙」に戻したというエピソードです。

 

 偏愛やフェティッシュといった愛着や執着とは別に、こうしたAIの行き過ぎた使用や、またあるいは世界的に電力に依存できなくなった場合に残るのは、千年も残ってきた「紙」であり、また、条件によるけれど1万年も残る洞窟などの壁だということを鑑みると、「デジタルの弱さ」というものは忘れてはいけないような気がします。そう言う意味では、デジタルはあだ花なのかもしれません。今は本を作るにもデジタル技術の恩恵を受けないわけにはいきません。紙だ電子だというのは、ある意味幸福な未来予想だったのかもしれません。たっぷり享受しつつ、溺れないようにしたいものだと思いました。