みらっちの読書ブログ

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この支配からの卒業【本心/平野啓一郎】

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こんにちは。

 

このところ、比較的新しい「小説」を読むことが増えました。

『本心』も、5月に出たばかり。

 

コロナ禍になる以前は、いわゆる純文学の「小説」からしばらく遠ざかっていました。

 

「小説」は、読むときは読むのですが、しばらく遠ざかると距離を取ってしまいます。なぜかと言うと、没頭してしまうから。小説というのはその世界にドップリ浸かってなんぼ、という気がします。それが小説家の腕の見せ所だと感じます。いったんその「世界」に入ったら、なかなか抜け出しにくい。あれ?そんなの私だけですか?笑

 

 

今回の『本心』。

主人公とは適度な距離を保てて、良い具合に切り上げながら読むことができました。それもそのはず、もともと東京新聞に連載していたもので、平野氏の提案で4日遅れでホームページにも掲載され、バックナンバーも読むことができるような形式での発表だったようです。紙面に加えてインターネットも活用する新しい試みであると、東京新聞webに載っていました。平野氏のTwitterに感想も送ることができ、これまでにない双方向な新聞連載小説だったようです。

 

私は書籍化されてから、電子書籍で読みましたが、東京新聞webでは今も連載のときのままに小説を読むことができるのにはおどろきました。こんな風に出版社から単行本として出版されてからもwebに本文が残っていて、誰でも読めるなんていいのかな、と心配になってしまいます。でもそれも、もしかしたら「本の新しい形」なのかもしれません。

 

平野啓一郎さんは1975年生まれ。1999年に『日蝕』で芥川賞を最年少受賞。

 実は私は、今回の『本心』が初・平野啓一郎さんです。

 

特に理由があって敬遠していたわけではなく、これまでご縁が無かったのです。時折政治的な発言をされているのを目にしたこともあったかな。敬遠、まではいかないまでも、少し遠くから見ていた感じがあったかもしれません。

 

今回読んでみようと思ったのは、ちょうど久しぶりに「小説」の気分だったことと、たまたま書評を読んだからです。ネット上だったのでどこでその本の紹介を見たのか忘れてしまったのですが、ちょっと近未来の話に今の世相が反映されているようで、面白そうだなと思ったのがきっかけです。

 

【あらすじ】

富裕層と貧困層に二極化・分断した世界となっている近未来の日本。主人公・石川朔也は29歳。母子家庭に育ち、どちらかというと下層に属していると感じながら、「リアル・アバター(VR装置をつけて代わりに旅行に行ったり、死ぬ前に会いたかった人に会ってあげたりする。依頼人はVRを通してアバターの体験を自分が体験しているように感じる)」として仕事をしています。

 

ある時、突然事故で母を失うのですが、その母が実は「自由死」と呼ばれる尊厳死を選ぼうとしていたことを知り、母の本心が知りたいと、生前の人間のデジタル・ログから本人そっくりの存在を作り出すVR(ヴァーチャル・リアリティ)システムの会社に母のVF(ヴァーチャル・フィギア:本当にそこにいるかのように目の前に姿を映し出すシステム)を依頼するところから物語が始まります。

 

 

 

さて、ここからはネタバレが入ります。

いつも多少のネタバレを読んだ後にも本を楽しめるようなブログを心がけていますが、やはり「まっさら」で読みたいという方はここまででお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 親の「本心」を探る話ですが、ミステリーではありません。近未来だからと言ってSFでもありません。もうすでに目の前にあり、あり得なくない世界で、親の、というよりはむしろ、自分の本心と出会っていく話だと思います。

 

 主人公の石川くん(なんとなく君付け)は真面目で誠実で、仕事もきっちりこなし評判も悪くないのですが、彼自身は他人の人生の一部を代行するともいえる一種のエッセンシャルワーカーとしての仕事が、人の役に立っているにもかかわらず低く見られている現状に対しモヤモヤした気持ちがあります。会社じたいもブラックです。精神的に成熟しきらない部分があり、人間関係に対しては非常に抑制的です。

 

 人間というものは、単純で一面的な存在ではありません。様々な顔を持っています。石川くんの場合も、母の死後、母を知るために知り合った人々から次々に新しいプロフィールをを知らされます。そのどれもが、これまで知ることのなかった母のひとつの事実を物語っています。

 

 母親が生きていた時のデジタルな生活の記録(写真、SNS、メール、その他デジタルに残っていたやり取りがあればあるほどリアルになる)を集め、「ヴァーチャル・フィギア(仮想人形)=その人もどき」が出来上がるのですが、その「もどき」は現実世界の人と交わることで、さらに本人と見まごうがごとくに成長していきます。

 

 ヘッドセットをつければ姿が見え、ごく自然に会話することもできます。当然「もどき」とは思えなくなっていく危険性をはらんでいます。VF会社の社員が言うように「リアルすぎて心があるように感じてしまう」のです。イタコも真っ青。怖いけれども、本当にそんなテクノロジーが実用化されたら、どれほどお金を出してもいいから欲しいという人が殺到しそうです。

 

 私は先に、石川くんに「未熟なところがある」と書きましたが、経済的に独立していてもちゃんと「成熟」している人が、この世にはどれほどいるだろうか、と思います。親の死に際し、様々な後悔を抱き、親に執着する(好きでも嫌いでも)ことは、自然なことで別段変なことではありません。

 

 母の愛人だった人が石川くんに言った言葉、「最愛の人の他者性に向き合う人間としての誠実さを僕は信じます」。石川君の場合、それは「あきらめる」ということだったと思います。母の本心はどこまでいっても知ることができない、それは推測でしかなく、自分が思いたいことでしかない。誠実に向き合ったら「あきらめる」しかないのだと思います。

 

 亡くなってから月日が経ち悲しみや寂しさが薄れゆくとともに、ある程度客観的になり「他者性」を受け止められることもあります。あるいは認知に問題が出てきた老親が、生きている間に少しずつ「他者性」を帯びていくこともあると思います。介護が長くなってくると、親を「○○さん」と名前で呼ぶ方もいますが、自分や自分との思い出を少しずつ忘れていく中で、親をひとりの人間として距離を持って眺め、その「他者性」を受け入れることはとても困難で、辛いことだと思います。

 

 この石川くんのお母さんは、たまたま、「自由死」する前に事故死してしまいましたが、私は「自由死」しなくて本当によかったと思いました。まだ生きられるのに「もういいから」と死ぬ、こんな強烈な自分の人生への、そして子供への「支配」はないと思います。

 

 本文中には、母親の息子への思いやりや愛が根底にあることが描写されているのですが、私はそれは本当に愛なのだろうか、と思ってしまいました。そもそもこのお母さんには、息子を精子提供で産んだ、という勝手があります。ひとりの母親として、このお母さんの考え方やとった行動には、少し憤りに似たものを感じます。自分の誕生以外のなにもかもを勝手に自分で決めようとする、というのは、愛でしょうか。たまたま、それができてしまうテクノロジーがあることが問題なのかもしれませんが、テクノロジーと言うのは結局、使う人間の問題です。

 

 いっぽうで息子の石川くんは、母親を投影してほのかに恋心を抱いていた女性(母の友達で経済的理由から一時的にルームシェアをしていた)と、仕事上の雇用主である車いすの青年との恋を取り持ち、応援します。彼ら二人は、少なくとも彼の中では性的な関係を排除したふたりであり、自分と母親の関係のもう一つの形でもあるように思えます。彼ら二人を祝福することは、彼にとっては母からの卒業だったのではと思います。

 

この支配からの 卒業(by 尾崎豊)

 

 ってやつですね。

 

 この本の表紙は、裸の母子像で、母親が赤ん坊に授乳している絵が絵が描かれています。とても象徴的な絵だな、と思います。この小説からは動物的な情動が排除されていて、お母さんは、ずいぶんスッキリと綺麗に整頓されている「母」であり、処女懐胎した聖母のようです。この絵だけが、親子の「生き物としての生々しさ」を表しているように思えます。母というものは子供にとって「運命」であり、良くも悪くも愛を原理にした支配者なのでしょう。

 

 家族が亡くなり、あともう一度だけでも、ほんの短い間でも、生き返って話ができたらと願うことは、様々な小説や映画のテーマにもなっています。しかしこれまでそれは「霊魂」として表現されることが多く、その出現も消失も自分がコントロールできないものが多かったように思います。

 

 ところが石川くんは「VF母とお別れする」と決めたら、VF母を物理的に消すことができます。葛藤の末ついに「VF母」と別れる決意をするのですが、最後の場面が「霊魂」っぽく描かれていたのが印象的でした。詳しくは書きませんが、そこに生身の人間の手助けがあったことで唯一この小説における「生々しい」、けれども「優しくて切ない」、お別れになったのかなと思います。

 

 この小説には、「思うに任せない」ことを「支配しようとする」ことの不気味さが溢れています。しかし実際はそううまく行きません。

 

 石川くんのお母さんは、精子提供で子供を持とうと将来を誓ったパートナーが去っていきましたし、望んだ自由死をすることはできませんでした。石川くん自身、VFをコントロールできるという自信があったのに、リアルすぎるVF母に結構振り回されています。仕事であるリアル・アバターにしてもそうです。同業の友達が犯罪に手を染めたのは、手足として動かされる被支配の状態を強制されることに耐えられなくなった結果、とも読めます。人間は何もかもをコントロールできると思い上がってはいけない、というメッセージのようです。

 

 人間の「本心」ってなんでしょう。自分の本心さえ、常に明確というわけではありません。家族であっても「本当は、何を思ってるの?何を考えているの?」とわからないまま、人生は始まって終わってしまいます。どんなに愛する人に対しても「あなたのことは何でも知りたい、心のすべてまでもわかっている」というのはあり得ないことですし、わかると思うのは危険なことです。

 

そして「本心」ってそれほど重要なものでしょうか。人間は、見たいものを見、信じたいものを信じる生き物です。

 

「ほんとうのこころ」というのは、自分の中にしかないと思います。他人から見れば千差万別に見えます。そしてそれは、誰かとシェアできるものではありません。理解されたり慰められたりできないものです。その孤独の覚悟があって初めて人は大人になるのかもしれません。

 

石川くんが、他者との関りに希望のある世界を受け入れる結末にほっとしました。