みらっちの読書ブログ

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子子子子子子子子子子子子、何と読む?【鬼の橋/伊藤遊】

こんにちは。

 

今日は児童小説です。『鬼の橋/伊藤遊(いとう・ゆう)』

1998年初版。福音書館。第三回児童文学ファンタジー大賞受賞作です。

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まずはタイトルの答え。「このねここねこ、ししのここじし」が正解!

 

これは『宇治拾遺物語』に出て来る小野篁(おの・たかむら)のお話に出て来るとんち、というかなぞなぞ、のようなものです。

 

嵯峨天皇の時代。内裏にたてられた「無悪善」の立て札。帝が才気に誉れ高い小野篁に何と読むか尋ねたところ「さが(悪)な(無)くてよ(善)からん」とあっさり読んでしまいました。立て札は小野篁の仕業と思った嵯峨天皇が小野篁を問い詰めたところ、自分がやったのではない、私は何でも読めるのだと言ったので、では「子子子子子子子子子子子子」は何と読むかと尋ねたら上のように答えた、というお話。嵯峨天皇は小野篁を許したそうです。

 

小野篁は非常に不思議な人物です。あの世とこの世、現世と地獄を井戸を通って行き来したと言われています。アニメ『鬼灯の冷徹』にも登場しています(長身で天パに描かれています。実際に身長が188㎝あったらしい)。

 

実在した人物で、遣隋使の小野妹子の子孫であり、小野道風、小野小町は彼の子孫(孫)です。小野家のファミリーヒストリーすごすぎます。書きたいことは山のようにありますがこのあたりで止めておきます。

 

篁自身も遣唐使副使に選ばれたのですが、ちょっとした事件がありこの話を蹴って、さらには朝廷を愚弄するような詩を作ったため流罪になります。その後「やっぱりあなたほどの才能のある人はいない」と赦免になり、その後は官職を歴任します。片手では足りないほどの伝説のある人物です。そう言った、権威にも屈しない反骨精神からか「野狂(やきょう=小野の普通じゃないヤツ)」とも呼ばれていたとか。

 

この物語は、篁の少年時代のお話です。あの世とこの世を行き来していた、という伝説から着想し、篁が子供から思春期を迎え青年へ自立していく成長物語になっています。

 

篁少年の描かれ方がとてもいいんです。才気煥発で賢いんですが、いかにも天才、というのではなく、ちょっとませた、身体の大きい少年、という印象。エリート教育で育っているので坊ちゃん育ちには違いないのですが、父親の小野岑守が囲っていた女性が亡くなったせいで、ある時突然現れた異母妹の比右子(ひうこ)に、あれこれと意地悪をしてちょっかいを出します。妹に興味があって、仲良くなりたいんだけれども、兄としてのプライドもあるし素直になれません。

 

十二歳のある時「行ってはいけない」と言われていた場所(五条河原の向う側の古寺。かつて京都の河原は死体置き場になっていた)に妹を連れていき、いつもの意地悪をしながらかくれんぼをして遊んでいたのですが、妹は古井戸に落ちて死んでしまいます。

 

それまでの篁少年は妹に対し、少々行き過ぎな意地悪をしていました。男の子ならだれでもするみたいな表現になっていますが、新しい家に行ってこんな義理の兄ちゃんいたら嫌だな~と、比右子ちゃんがちょっと可哀そうになるレベル。しかし、物語の後半、篁が気持ちがすれ違い続けた父親と和解した時に、父親が「自分がかまってやれなかった分、篁が比右子に構ってくれて有難かった」という場面があったので、ちょっとした意地悪をしながらでも、比右子と一緒に過ごした時間は、篁にとっても比右子にとっても、心を通わす時間だったのだろうと思います。母が病弱で甘えられないことで、兄として虚勢を張りながら、おとなしい比右子に甘えていたのかもしれません。

 

ここは少々、大人のうがった感想なのですが、篁の母親は病気がちで、どうやら亡くなった第二夫人に対して思うところがあったようです。母が比右子に対して、いい感情を持っていなかった、ということを篁が知るシーンが出てきます。篁の母にとっては、比右子の死後篁が落ち込み続けているのを見兼ねたというのもあったと思いますが、思春期の篁にはショックなことでした。

 

大人の私は、篁の意地悪に、親の影響というものを感じずにはいられません。篁の心情とは別に、比右子は篁の家で歓迎されなかった上に、義理の兄に殺されてしまったというストーリィも成り立ってしまうわけです。篁の深い悔恨と落ち込みというのは、異母妹を失った悲しみだけではなく、家の問題も背負っていた落ち込みだったのではないかと思われます。子供の世界に影響してくる大人の事情を、子供は結構わかっています。特に篁は父親がどんな役職にありどんな仕事をしているのか、母親との関係、社会的立場や職場での人間関係、エリートとしての振舞いなどを、非常にクールに観察しており、よく理解しています。元服直前で当時としては成人に近いとはいえ、ぼーっとしたお坊ちゃんではありません。このあたりを書くのが、伊藤遊さんすごく上手いと思います。

 

そのようなわけで、妹が亡くなってからの篁は別人のように打ちひしがれてしまいます。

 

妹を亡くした後、井戸の中に(精神・魂だけ)入ってしまう過程もいいです。井戸の中で篁は、この世とあの世をつなぐ橋で征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に会います。馬頭・牛頭と思われる鬼に食べられそうになったところを、将軍に助けられます。

 

将軍は篁の父の友人でした。三年前に亡くなったときに、帝に「永遠に都を守り続けてくれ」と言われて戦支度で立ったまま葬られたため、彼は今でも、死ぬに死ねず、そこで踏みとどまり、鬼から京の都を守っていたのです。

 

坂上田村麻呂は、東北の蝦夷討伐をした英雄で、東北出身の私なんかにしてみたらアテルイを討ったニックキヤツです。が、アテルイに敬意を表して京都でちゃんと弔ってくれたのも坂上田村麻呂。なんというか、忠義に厚く義理堅いイメージを持っていたので、この物語の人物のイメージはぴったりでしたし、それゆえにあまりに悲しい境遇の設定に驚きました。沢山人を殺めた武人である誇りと悲しみを持つ人物。尊敬とともに畏怖を感じる篁の心情に共感します。

 

井戸から戻ってからの篁は、しゅっちゅう家を抜け出して放浪するようになります。それもこれも、井戸のある古寺に行く道すがらにある橋で、父親がその橋の普請に関わった少女、孤児の阿子那(あこな)と、坂上田村麻呂将軍にツノを折られて「鬼性」を失った鬼、非天丸(ひてんまる)と知り合ったからでした。

 

阿子那は比右子と同じ様な年ごろでしたが、おとなしく自己主張できない比右子とちがい、身寄りがなく貧しいけれども高潔な魂を持っている、たくましい女の子です。間違いなくあの世から来た鬼であろう非天丸を、強い心で信じ、支え続けます。

 

阿子那は失った父親を非天丸に投影し、非天丸は阿子那の純粋な、包むこむ菩薩のような心に打たれて次第に人間のような心や知恵を獲得していきます。様々な障害を乗り越えて父子のような情愛を育てていくふたりと家族のような時間を過ごすことで、篁も少しずつ、自らの生きる力を回復していきます。

 

河原と橋というのは、あの世とこの世の境界でもあり、子供と大人の境界でもあります。比右子の死に対する罪悪感から様々な事件に巻き込まれていき、成長していくさまが活き活きと描かれていて、とにかくぐいぐい惹きこまれ、あっという間に読んでしまいます。児童小説というカテゴリでくくらず、多くの人に読んでもらいたい本です。

 

作者の伊藤さんが京都出身だからなのか、当時の京の描写がとても具体的で、ファンタジーなのに歴史小説みたいなリアル感があります。あとがきを読むと、伊藤さんはこのお話をファンタジーとして書いたわけではなかったようです。ファンタジーの賞をもらったのだがいまひとつピンとこない、ということを書いていらっしゃいました。

 

ジブリで映画化したら面白いのになぁと思わずにはいられません。ぜひ映画化希望です。できたらCGじゃなくて『かぐや姫の物語』のような絵でお願いいたします。

 かぐや姫の物語 : 作品情報 - 映画.com

 

 

さて、伊藤遊さんは、他にもこんな本を書いています。

 『狛犬の佐助 迷子の巻』

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 明野神社の狛犬の「うん(吽形)」のほうには石工の佐助の魂が宿っていて、「あ(阿形)」のほうには親方の魂が宿っています。佐助と親方は、150年もの間、おしゃべりしながら神社で人間たちを見守っています。子供は7歳までは佐助と話ができるのですが、残念ながら7歳を過ぎると話ができなくなり、話したことも忘れてしまいます。誕生日が来たとたんに話ができなくなるのが少し切ないくらい。100歳を過ぎるとまた話ができるようになるそうです。

 

 

私はこの物語を読んで、「あ」は口の中に玉を持っていることを知りました。そういえば神社に行くと、口の中に玉を持っていたり、足で踏んでいたり、子供を踏んでいたり、角を持っていたり、いろいろな狛犬がいます。この本を読むまではそこまで気にしたことが無かったのですが、それから注意して見るようになりました。

 

それからちょっと調べたら、実は二体とも狛犬ではなく、「あ」は獅子、「うん」が狛犬なのだそうです。玉を持つのは「あ」が多く、「うん」には角があることが多いようです。角があるのは、特に古いタイプの「うん」だとか。この本を読んでいる時は知らなかったので、そこまでは書いていなかったのかな、図書館で借りた本だったのでちょっと忘れてしまいました。


お話は、神社に参拝に来る人々の人間模様が中心になるのですが、なんといっても親方と佐助の話、子供とのやり取りが何とも言えず、楽しい。このお話を読んで以来、神社に行くと、狛犬たちがおしゃべりしているような気がして仕方がありません。

 

伊藤さんは、そんなに多作な作家さんではないのですが、それぞれ雰囲気の違うタイプのお話を書いている気がします。共通して言えるのは、人の魂の持つ「純粋さ」を描くのがとても上手ということ。さすが、児童文学で数多くの賞を取っていらっしゃる作家さんだなと思います。出した本がほとんど、何らかの賞を受賞しているのではないでしょうか。それはなかなか、稀有なことだと思います。

 

『狛犬の佐助 迷子の巻』は、迷子の巻、とあるので、シリーズものでその後も沢山続きがあるのかなと思ったら、これだけのようです。残念です。できれば続編を読んでみたいです。