みらっちの読書ブログ

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僧侶だろうと、あるいはそうでなかろうと、私は無常【超越と実存「無常」をめぐる仏教史/南直哉】

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こんにちは。

 

一時期、仏教関係の本を読み漁っていたことがあります。

 

たとえば「禅」。マインドフルネスに影響を与えてるし、なんか現代ではちょっと「カッコいい」「外国から見直されている日本の文化」みたいに思う人もいるかもしれませんがれっきとした宗教です。

 

かつて、新興の宗教が色々変なことを言ったりやったりして、その後も他の宗教が家のポストにポスティングして行ったりするとすごく不愉快な気分になるのだけど、分断とか陰謀論とかインフォデミックとかのこのご時世の今、実は宗教のことをきちんと考えないといけない時代になっているんじゃないだろうか、と思っています。

 

何かを信仰したほうがいいとか、既存の宗教を見直すとか、そういう話ではありません。念のため。子供にもちゃんと話ができるくらい、体系的な見方ができるように整理した方がいいんじゃないか、と思ったのです。でないと、子供が変な宗教に入ったり、洗脳されたり、マルチ商法やネットワークビジネスにハマってツボを買ったりしちゃう危険があるんじゃないだろうか。今の世界って、実は危ういんじゃないだろうか。

 

まあそんな思惑から、宗教全般から入って瞑想や禅、スピリチュアルの現在まで、いろいろと興味を持ったわけです。

 

様々な本を読む中で一冊の本に出あいました。

 

超越と実存 「無常」をめぐる仏教史/南直哉
【超越と実存 無常をめぐる仏教史/南直哉(みなみ・じきさい)】

2018年に第17回小林秀雄賞を受賞しています。

南さんは恐山の禅僧です。恐山の禅僧ってよく考えるとちょっと色々面白いんですが、そこもとりあえず保留で、こちらをご覧ください。

www.youtube.com

ご本人の受賞スピーチです。

 

さて、この本ですが、ご本人もスピーチで仰っているように、自分の興味のあるテーマにそったお話をまとめたものということで、普通の仏教史ではありません。でも、私はこれほどしっくりくる仏教史はないなと思いましたし、私が知りたかったのはこれだと思いました。

 

人間はみんなひとりひとり「自分の問題」というテーマみたいなものを抱えていると思うのです。誰かと共有する問題、政治とか環境とか、そういうものではない、個人的な問題、苦しみ、のようなものです。それを、どう解決していくか、ということに直面した時に、南さんが選んだのが「仏教」という宗教であった、ということがとてもよくわかりました。そしてそれを自らの心に追求するのが本来の「宗教」というものなんじゃないかと思いました。

 

僧侶だろうと、あるいはそうでなかろうと、私は無常

 

あとがきで南さんはそう書かれていました。

 

そもそも中学生の時に道元の「正法眼蔵」を読んだということには衝撃を受けましたが、それだけご本人の問題意識が強かったのだろうと思います。南さんの抱えていた問題というのは「どうして生まれてきて、どうして生きているのか」「生とはなにか死とはなにか」「人間は死んだらどうなるのか」というとてつもなく根源的な問題でした。それに応え得る人間が周りにいなくて、答えてくれたのは道元さんで、仏陀だった、ということが、ご本人は「まことに不親切でわかりにくい」とご謙遜をおっしゃっていましたが、とんでもない。とてもストレートにわかりやすく書かれていました。

 

これを読んだときの私の衝撃は、なによりも「自分の問題」を解決するすべが、必ずしも周辺の人、あるいは生きている人間でなくてもいいということでした。強くて根源的な問題意識と知的好奇心は違います。知的好奇心を満たすためなら「読む」「聞く」ことでも解決しますが、根源的な問題意識はそれだけでは解決しません。そのため人はどうしても人に求めがちで、それに応えてくれる人が周囲にいない場合、さらに傷ついて苦しむ結果になります。

 

普通の人はそういった問題はひとまず棚上げにして、自分を曲げるか忘れるかして、いびつな自分を抱えたまま目の前の現実に対処する道を選びます。南さんは自分の問題を棚上げにすることができなかったのだと思います。道元の「正法眼蔵」を読んで以来、仏教の原典にひとつひとつあたって紐解いていき、自分の問題解決の糸口をさがす旅に出ます。その先にあったのが道元であり、「空」を提唱した龍樹であり、仏陀その人でした。

 

本書で私がテーマにしていたのは、あくまでも各々の思想的言説の基盤となる構造とパラダイムである。(「おわりに」より)

 

言葉通り南さんはきっちりと「日本仏教における思想的な流れと構造」を整理し、そこで得た「仏教の使い方」をこの本を通して私たちに示したうえで、「今後に役立ててね」と言っている、と私は受け止めました。

 

たくさんの宗派が生まれ、たくさんに枝分かれして、様々な考え方や思想が広がって、仏教の世界もとても広く大きくなって茫洋としており、いってみればしきたりや方法だけが先行して形骸化しているものも多い現在です。日本では歴史と密接につながっているために身近に感じますが、実は現代の日本人の人心からとても遠いのが仏教です。おそらくたくさんの誤解が生まれていても、それを正す術すらないのが実情だと思います。気にするのはお葬式のときのマナーくらいでしょうか。

 

南さんは宗教家でありながら、宗教家の立場から「哲学」をしているような気がします(実際他の人からもそう言われる、とあとがきにもありました)。要所要所で繰り出される批評や理屈がとにかく鋭くてびっくりします。仏教における哲学の流れを書いたのがこの本で、実存という言葉を用いたのはそこを意識したせいではないかと思います。南さんが著書の中で使っていらっしゃる「実存」という言葉は、西洋のいわゆる哲学の「実存」とは違います。とても仏教的な「実存」です。これはぜひ、読んでいただけたらと思います。

 

結局この「実存」が気になり、哲学関連の本まで読むことになりました。最近斜陽気味で窓際に追いやられた感のある「哲学」。現在、哲学界の天才と呼ばれている若い哲学者、ドイツ人のマルクス・ガブリエルは「新実在論」を唱えています。ポストモダン後の混迷の時代を抜けて新しい「論」を展開するのは簡単なことではないようです。「新実在論」はアメリカ発祥の考え方で、これまでの哲学はつねにヨーロッパが独壇場でした。ドイツでもフランスでもそれまでのヨーロッパの歴史が自己の中に堆積していることが大前提でしたが、構造主義からポストモダンにいたってヨーロッパの哲学は壊滅的になってしまい、それにたいする反証が欧米に比べて歴史のないアメリカで起こったのが「新実在論」です。そしてそれが、ドイツ人マルクス・ガブリエルによって逆輸入されているのが今の哲学の流れのようです。まあ、ものすごくざっくり言うと。

 

www.kinokuniya.co.jp

 

マルクス・ガブリエルの「新実在論」に対する評価は定まっていないようです。あえてここでもざっくり言うと、彼の論には少し東洋的な要素があり、それが南さんの「実存」と似ているところがあるように思えました(同じではないですが)。特に「みえていないところにもある」ということが。新鮮ということなのか、はたまた異端になってしまうのか。古典哲学は解答が出ている過去問のようなもので、現代哲学に関しては力点の置き所がない、結局時間が経たないと「評価」はできないというのが哲学の本質なのかもしれません。

 

さて、南さんはあくまで宗教家の立場で「仏教」をもとに哲学しているとさきほど言いましたが「死」をめぐる哲学はやはり「宗教」の領域です。それが哲学の限界かもしれません。古典哲学などは最たるものですが、どうしても自らの置かれた時代の「神」と切っても切れないことになるので。果敢に挑戦したのはカントくらいでしょうか。

 

南さんは、今の時代が「鎌倉時代に似ている」と言っています。なぜかというと鎌倉時代は「個」と向き合った最初の時代だからだ、と。「個の所属問題」が新宗教が爆発的に広まった要因だったという指摘にはうなりました。なぜなら「個」と向き合うのはしんどく、つらく、不安なものだからです。ものすごく大きなパラダイムシフトがあった時代、それと今が似ているということは、日本人は「個と所属」の問題に関して再び大きな岐路にさしかかっている、ということなのかもしれません。この本の刊行は2018年ですが、コロナ禍になり、世界中でテクノロジーのイノベーションや環境問題がくっきりと浮かび上がってきた昨今、より一層その「岐路」が明白になってきている気がしてなりません。

 

一冊の本からたくさんの本を読んだり、深く考えさせられるというのは得難い経験です。正直、このブログではとても語り尽くせない発見をいただきました。有意義な時間をすごせた、これはよいきっかけとなった本でした。