みらっちの読書ブログ

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ユートピアを断念した物語【銀河鉄道の夜/宮沢賢治】

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こんにちは。

 

読書ブログを始めてから、避けては通れないと思っていたのが、宮沢賢治(固有名詞で表現される存在なので敬称略)の『銀河鉄道の夜』。大学で卒論に選んだくらいなので、幼少期から現在に至るまで、結構引きずりまくっています。

 

でもすごく好きなのか、と言われると、わかりません。少なくとも「ファン」というようなものではないし、卒論は書いたけどマニアではないです。とにかく「オススメ」とか気軽に言えない。近づきたいけれども距離を置いていたい気持ちが、どこかにずーーーっとあります。

 

やばい。こじれてる…笑

 

そんな気持ちを代弁してくれた本がありました。

www.kinokuniya.co.jp

 

【銀河鉄道の父/門井慶喜】講談社第158回直木賞受賞作です。

この本は宮沢賢治の「父親」が主人公です。ここではあくまでも宮沢賢治は息子であってそれ以上でもそれ以下でもない。厳しくしたくてもできない、甘やかさないように、と頑張るんだけど実はメロメロ、そんな長男・賢治への父親の思いが見事に描かれてます。ここでの賢治は「石っこ賢さん」と呼ばれた少年時代のまま。お父さんに依存しまくった人でしかありません。お父さんから見ると、兄の賢治ではなく妹のトシの方に文学的な才能を感じ期待していたらしいのです。作品世界とは全く別の、伝記的なこうした徹底した「父親目線」をどう思うか、というのは好悪が分かれるところだと思いますが、私は面白かったです。賛美だけじゃない、でも愛がある。「宮沢賢治」という人を少し離れたところから見ることが「こじらせちゃったひとの正しい宮沢賢治とのつきあいかた」なのかなと感じました。

 

と、それはそれとして。

 

賢治の生きた時代、明治末期から昭和の初めまでの、どっぷり大正時代。東北で生きていくというのはとても厳しいことだったはずです。私のご先祖様のことを考えても本当に、東北人というのはすごい、と思います。強靭な体力と精神力がないと生き抜けません。賢治は身体が弱かったそうですが、家が裕福だったので、病院にもいけた、薬も手に入った、まだマシだったはずです。

 

そういえば1918年頃にはスペイン風邪がありましたが、当時22歳の賢治は学校(現・岩手大学農学部)を卒業してどうするか?で悩んだり、宗教に傾倒し、親ともめにもめていた時期です。肋膜炎になったり、トシが肺炎になったりしています(スペイン風邪と関係があったかは不明)。

 

比較的恵まれていて、自分の意志を表明もできる環境の中でも、賢治は常に自分が望んだようには生きられなかったようです。信仰を持ち、生きとし生けるものを愛し、生殺与奪を嫌悪し、菜食したりストイックに生きようとする彼の人生は、周囲になかなか受け入れられませんでした。

 

シンガーソングライター藤井風さん『へでもねーよ』という曲の出だしは「野菜ばっかの生活しよんのに」。藤井さんも菜食主義みたいですね。ストイックに生きようとすると、自分の内部とも外部とも軋轢があります。「へでもねーよ」は仏教的三毒とかキリスト教の七つの大罪とかそういうのを跳ねのけようと内省し闘う歌だと感じます。「神さま」という言葉が、藤井さんの曲にはよく出てきます。彼に何か特定の信仰や宗教があるのかは知りませんが、こういう曲が大衆に受け入れられ、内省にカミサマとサラっと言って許される空気が、現代のいいところだと思います。

 

宮沢賢治は生前一冊だけ詩集を出しています。『春と修羅』。自費出版でした。ほかに『注文の多い料理店』を出版しています。

 

いかりのにがさまた青さ

四月の気層のひかりの底を

唾(つばき)し はぎしりゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

(『春と修羅』)

 

藤井さんの曲を聴いたとき、思い出したのがこの詩でした。

 

 

 今はベジタリアンとかビーガンとか普通だし、ハラルフードのあるスーパーだってある時代。今なら彼ももう少し安定した人生を送れるのかもしれません(名作は生まれなかったかもしれないけど)。宮沢賢治は時代を先行しすぎていた、生まれてきたのが早すぎた、とは言えるかもしれないな、と常々思っています。

 

さて『銀河鉄道の夜』。最近はアニメ『銀河鉄道999』と混同していたり、『999』の原作だと思っていたりする若者もいると聞きました(『銀河鉄道の夜』が原作の、登場人物を猫にしたアニメはあります)。長く読みつがれているとはいえ、そろそろ宮沢賢治は「教科書に出てくる作家」でしかなくなっているんでしょうね。

 

『銀河鉄道の夜』は、遺作、と言うことになっています。未完成です。特にこの作品は改稿が甚だしくて、どれを「完成形」と考えるかは専門家でも意見がわかれます。今は最後の原稿がいちおう完成した形ということで世の中に出ています。

 

卒論を書くことになったので「初期稿」から「4次稿(最終稿)」まであることを知りましたが、それまでは「別の形」の『銀河鉄道の夜』があるなんて、知りませんでした。でも、この初期稿が、私にとっては強い印象を残すことになりました。初期稿には最終稿には登場しない人物が登場し、少し違った趣が漂います。

 

初期稿を改稿するときに削った文章がこれでした。

 

みんながめいめいじぶんの神様がほんたうの神様だというだろう。けれどもお互いほんたうの神様を信じる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それから僕たちのこころがいいとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。

 

「ブルカニロ博士」という後期の原稿にはない登場人物が、主人公ジョバンニに言う言葉です。

 

この後に、けれどもおまえがほんたうの考えとうその考えをわけてしまへば、その実験の方法さへ決まれば、もう信仰も科学と同じやうになる、という言葉が続きます。

 

正直、信仰と科学って聞くと、1995年以降、ちょっと嫌な気分になる人が多いのではないでしょうか。私がこの文章に出会ったのはその数年前でしたが、その時の私ですら「なんだかな」という気持ちになりました。これが彼の「幻想」「理想」だったと、学生当時、思ったと思うのですが、それをうまく説明はできませんでした。

 

 

宮沢賢治にとって童話や詩のほぼすべては、自身の信仰する法華経布教活動の一環でした。彼がどうしてこの改稿をしたのか、その真意は諸説あり、わかっていません。

 

宗教では「神様はいます」が絶対の解。その存在は論理的に証明できません。歴史上、西洋では宗教的タブーに挑みつつ何人もの哲学者が神の存在証明に挑んでいます。ライブニッツやニーチェやカントや。しかし明らかに万人がうなずく結果はなく、かといって神が存在しないことも証明できませんでした。最近は科学技術が発達して哲学は下火だし「神は死んだ」どころか「もとから無い」のが前提という感じですね。学術的にはもう、ここには踏み込むことができなくなってる感じです。

 

今は科学が全能の神みたいなもので、いつか自然科学がすべての問題を解決するだろうと誰もが信じているようです。それはそれで、後世の人から見たら何か違うのかもしれませんが、人は時代の枠組みからは逃れられません。

 

賢治にはもちろん、明確な宗教的信念があったはずです。私は賢治が童話で、どうしてそんなにも熱心に科学と信仰を結び付けようとしたのか長い間疑問でした。確かに文明開化以後の世界は、列強諸国に追いつけ追い越せの富国強兵。鎖国で停滞していた科学の進歩も目覚ましく、生活も楽になる、病気も治る。科学の力で豊かになる世界はひとつのユートピアだったと思います。

 

現代に続く科学信奉はおそらくこのころにもあったと思いますが、そこに賢治は「願い」や「祈り」「人の在り方」も求めたのだと思います。少なくとも、彼の中では科学と法華経は「共存できるもの」だったのでしょう。論理をつきつめると、科学であり、法華経でもあるのが、彼の中で自然だったのだろうと思うのです。

 

賢治は「イーハトーブ(岩手をもじったとされています)」という場所を舞台にユートピアの物語をいくつか書いています。他の童話より宗教的(特に法華経の)啓蒙意識が強いような気がして、私は「イーハトーブ」全般の物語が好きになれませんでした。

 

特に『グスコーブドリの伝記』は自伝ともいわれていますが、理想とする世界のために最後に自分の命を犠牲にしてみんなを救うというお話が、いかにもなプロパガンダを感じていまひとつでした。『よだかの星』などもそうですが、ほとんどがそうした賢治の理想、法華経信仰がもとになっています。それらは賢治にとって「けれどもおまえがほんたうの考えとうその考えをわけてしまへば、その実験の方法さへ決まれば、もう信仰も科学と同じやうになる」を具現化したユートピア=理想の世界だったのだろうと思うのです。

 

賢治が地元岩手を豊かな農業地域にしたかったのも、そのために心血を注いだのも事実です。それが周囲になかなか受け入れられずに空回りしていたとしても、自らの信仰と科学技術によって豊かになる社会の実現を目指すという信念に基づいた行動だっただろうと思います。単なるマニフェストではなく、本気で、自らに実践を課していたのでしょう。

 

『銀河鉄道の夜』は異世界的な物語ですが、イーハトーブとは明言されていません。異国のようで、もっとぼやっとして、曖昧な、ユートピアでもディストピアでもない世界。宮沢賢治は、数少ない理解者であった友達とうまくいかなくなったり、妹の死を経て、この物語で「理想の世界」をより「現実世界」に近づけることで、「信仰と科学を結びつける=理想のユートピア」を断念したのかなと思うのです。

 

改稿後の本編の中には、沈没したタイタニックに乗っていたと思しき姉弟が出てきます。銀河めぐりの旅の途中で乗り込んでくるずぶ濡れのきょうだいと彼らを助けた青年。どうやらキリスト教徒であるようなことがほのめかされている彼女たちは、自分の信じる神様こそが「ほんとう」であり、ジョバンニも含めてすべての人が「かみさま」といえば自分たちの信じる神様をさすと信じて疑っていません。ジョバンニはその神様が自分が思い描く神様だとは思えないので、話が食い違います。ずっと平行線のままの会話にジョバンニは泣きそうになってしまいます。「そんなんでなしにほんたうの、ほんたうの神様」と彼は食い下がるのですが、彼自身にもそれがどんな神様かわかっていません。ただ、いる、と思っています。

 

初期稿で削ったブルカニロ博士の言葉は、最終稿でこのシーンに凝縮されましたが、最後まで削られることのなかった場面です。

 

みんながめいめいの神様を本当の神様だという。これはどの時代でも、宗教だろうが科学だろうが経済だろうがスポーツだろうがあらゆる主義主張に同じことが言えます。自分の信じることを信じたい、信じる世界が真実だと思う。でも信仰や考え方が違う人たちがすることでも涙がこぼれる。誰かが他者のためにしたことに感動することができる。そういうシーンは、『銀河鉄道の夜』にたくさん出てきます。だから議論しても決着はつかない

 

「かみさま」という概念を、何がほんとう(正しい)で、何がうそ(間違い)なのかという二元論で解決しようとしても永遠に平行線です。そこに科学をもってきて理想を描いても、それがいかにユートピアでも、みんなの幸せにはつながらない。

 

学生時代は、晩年の賢治は法華経にこだわらない「神さま」や「信仰のあり方」を模索していたんじゃないかと考えましたが、死に際のことを考えると、彼の法華経信仰は強烈でゆるぎないものだったし、その後彼の家が日蓮宗に改宗したことを考えると、やっぱり賢治の思う「たったひとりの神様」は法華経に寄るところの存在だったんだろうと思います。

 

この物語では明言することを避けて、宗教にこだわらず他者とのつながりを尊重したのかもしれません。愛しい人が死後、同じ場所に行くとは限らなくても、心のありようでつながっている、というのが重要だ、と。

 

最終稿のジョバンニは街に戻ってきて、日常に戻ります。カンパネルラがいないだけで、なんにも変わらない世界なんですけれども。こんなことがあっても結局ザネリは意地悪かも知れないし、自分は共同体から疎外され続けるのかもしれないんですけれども。それでもお父さんが帰ってくるという希望がある。

 

カンパネルラの自己犠牲を通して、ジョバンニは自分の心に向き合います。それまでの賢治の物語は「自己犠牲」で終わっていましたが、ジョバンニはそこから一歩先に進もうとします。カンパネルラとジョバンニの降りる駅が違うように、それぞれにそれぞれの思いや信念、祈りや信仰があるということ、それでも人は寄り添って生きるということ。そんなメッセージ性が強まり、ユートピアという幻想を断念したことで、この物語が普遍性を持ったのではないか、と思います。

 

米津玄師さん「カムパネルラ」の歌詞には、たくさんの『銀河鉄道の夜』に出てくるモチーフがちりばめられています。リンドウの花、オルガンの音、真っ白な鳥、波打ち際、クリスタル。

 

追い風に翻り

わたしはまだ生きていくでしょう

終わる日まで寄り添うように

君を憶えていたい

カムパネルラ

 

米津さんは、2021年の年頭に発表されたインタビューで「普遍性があればあるほど、何かを取りこぼす可能性もあるわけです。広く大きくなればなるほど、そこからはじき出された人間の色が大きくなっていく。例えば、今の社会は、右利きの人の数が多いから、左利きの人を無視したデザインになっている。それは音楽においても同じです。そうした取りこぼしていくものに対して、どれだけ自己批判を絶やさずにいられるかというのが、これからの制作において大事ではないかと思います」と言っています。

※米津玄師さんが超える分断「こぼれ落ちるものをすくう」 [新型コロナウイルス]:朝日新聞デジタル

 

人間のひとりひとりにドラマがあり、誰かが誰かの大切な人なのに、歴史の中ではあっさり取りこぼされていきます。自分の命をかけて誰かを救ったカムパネルラのことも、時が流れればいつかはみんな忘れてしまいます。

 

宮沢賢治もまさにそういう思いでこの物語を書いたんじゃないかと思います。アーティストの根底は奥底深くでつながっているような気がしてなりません。