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ドーナツの穴はありやなしや【中空構造日本の深層/河合隼雄】

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こんにちは。

 

 影響を受けた、と言って、以前宮沢賢治を挙げましたが、私にとってはもうひとり、どうしても外せない方がいます。

 

 日本の心理学者、河合隼雄先生。

 

 いまもって、本屋さんにはたくさんの著書が並んでいるので、目にしたことがある方もいらっしゃるのではないかと思いますが、2007年に亡くなられています。

 

 亡くなられたのが、私にはまるでついこないだのように感じられるのですが、すでに15年近く経とうとしているのですね。いやぁ、年は取りたくないものよのぅ。

 

 7人の男兄弟の5男、だそうです。

 

 河合家の7人の兄弟は(ひとりだけ夭折)全員超優秀で、外科医、内科医、歯科医、霊長類学者、脳科学者、隼雄先生が心理学者・教育学博士。お母様はさぞかしお腹を痛めた甲斐があったであろうと思われます。

 

 京大理学部卒業後、京都大学大学院に所属して心理学を学びつつ、数学教師として勤め、その後日本人として初めてユング研究所にてユング派分析家の資格を取得。箱庭療法を日本へ初めて導入。1988年に日本臨床心理士資格認定協会を設立し、臨床心理士の資格整備をされ、日本の心理学になくてはならない金字塔を築き上げました。趣味はフルート。

 

 若い頃、とにかく河合先生の本を読みまくりました。

 

 自分の悩みをたどれば何があるのか、背景には何があるのか、心の問題に対して答えを求めていたのだと思います。

 

 単純に、流行ってもいました。

 今アドラーがもてはやされているように、当時はユング心理学全盛期。

 それは河合隼雄先生の絶妙な優しい語り口の書籍に寄るところが大きかったと思います。

 

 なかでも何が特に、といったら、私は『中空構造日本の深層(1982)』を挙げたいと思います。

 

 『中空構造日本の深層』は、ユング心理学を下敷きに、日本の古事記や昔話から、日本人の心の中には「中空構造がある」ということを論じたものです。

 

 いわく、日本人は父性と母性のどちらにも傾かない。バランスしたところに中心を持ってくる。だから日本人の心というのは中心部が「空」なのだ、ないのだ。というのです。そして上山春平氏の「思想の日本的特質」という論文をひきつつ、その「中空」がどんなものかを説明されています。

 

(上山氏は日本の特徴的態度は)「思想における徹底した受動性もしくは消極性に他ならなかった。体系的な理論の形で積極的に主張(テーゼ)を押し立てていくことをしない態度」と述べている。我が国に常に外来文化を取り入れ、時にはそれを中心においたかのごとく思わせながら、時がうつるにつれそれは日本化され、中央から離れていく。それは消え去るのではなく、他の多くのものと適切にバランスを取りながら、中心の空性を浮かび上がらせるために存在している。このようなパターンはまさに神話に示された中空均衡形式そのままであると思われる。(『中空構造日本の深層』より)

 

 中心を「空」と認識することは困難であるので、一時的にせよ中心に据えるものが生まれる。それは日本人にとってアンビバレントなことである。新しいものを取り入れるのは中空性を反映しているが、補償作用として、自分の投影した中心に対するつよい執着心を持つ。日本人は自分が中心と思うものには執着するが、時が経ち内容が変化すると、新しい中心を迎え入れる、それが日本人の思想、政治、宗教、社会構造に影響を及ぼしていると、河合先生は言います。

 

 何かの原理が中心を占めると言うことはなく、その周りを巡回している構造があるというのです。 


 まるでドーナツの穴問題の解答のひとつのようです。

 

 「ドーナツの穴を残したまま食べることができるか?」という禅問答みたいな哲学クエスチョンがあります。

 

 古代は穴あきパンの問題と言われたそうで、遊びの一種ですが長きにわたり論争が繰り広げられ、歴史に名のある哲学者たちもチャレンジしたようです。

 

 最終的にアインシュタインのドーナツの穴相対論(穴の存在がないのかあるのか、は、各々に相対的なものである)が模範解答で解決、とされているとか。

 

 現代にいたっても、大学の先生たちがまじめに議論するなど、時々論争が取り上げられます。『ドーナツを穴だけのこして食べる方法』という本も出ています。

 

 

nikkeibook.nikkeibp.co.jp

 

 数学者、哲学者、文学者、工学者など立場が違うと考え方も、証明しようとする方法も千差万別で、チャレンジすることじたいがとても面白いらしいです。そもそもこうした問題を面白がれる人と面白がらない人もいて、それもまた多様でよろしい、と。

 

 名言もたくさん生まれていて、オスカーワイルド「楽観主義者はドーナツを見て、悲観主義者はドーナツの穴を見る」と言ったそうです。村上春樹の「羊をめぐる冒険」にもこの話がでてきます。


 河合先生のこの論でドーナツ論争に参加すれば、ドーナツの穴は存在する、ということになります。しかもないことによって存在する、ということになるのです。周辺によって存在させられる、とでもいいましょうか。そしてそれが、日本人の根底にあるのだ、と。


 外国人に理解してもらうのはひと苦労だと思いますが、感覚的にはとてもよくわかる。確かに日本人は「中心」にあるものを崇め奉りながら、たいして好まない。自分が中心にいるのも実は好まない。「みんなで」「いっしょに」「じぶんだけじゃない」そういう精神構造があります。ドーナツ周辺部分を作って、わざわざ穴を作りその穴を大事にする、というような複雑な人たちであるような気がします。


 河合先生が著作中に例として出していましたが、「アマテラス」「ツクヨミ」「スサノヲ」という神様にしても、そうなのだ、というのです。どれも中心ではない、といいます。とにかく「唯一無二の神様」というのが、日本には存在しないわけです。八百万の神々がいて、その中心に神という概念がある。しかしそれには実体がない。そして外来の神様やら仏様やらがくれば、中心にそれを置いてみる。でも、それを永続的に中心に据えたりはしない。いつのまにか、なんとなく周囲となじんでしまい、またほかのものを中心に据える。常に中心が移ろいゆくのです。


 しかし河合先生も、現在は振り返られることはないですね。引用で出てきた上山氏も、一昨年亡くなった梅原猛氏らとともに京大で活躍された哲学者ですが「ちょっと極端なことをいう学者」として今は潮流を外れていると思います。日本はこうして「流れ」があれば祭り上げられ、なくなると見向きもされない。これもまた中空構造ゆえなのかと、感じられてしまいます。


 ユング研究の一人者で、スイスで学んだ河合氏ですが、地元スイスでもチューリヒのユング研究所は存亡の危機にあるらしいです。フロイトとユング、そして今もてはやされるアドラーは三大心理学者と呼ばれるそうですが、現在学説が支持されているのはアドラーのみです。

 

 日本人のそうした精神構造は、しかし、こちらの本でも議論されていました。

 

www.kinokuniya.co.jp

 

 日本人の宗教観をめぐっての対談です。山本七平氏は、イザヤ・ベンダサンのペンネームで『日本人とユダヤ人』、山本七平氏として『「空気」の研究』などを著した評論家、一方の小室直樹氏は東大の社会学者・評論家さんです。著作多数。おふたりとも、思想的にちょっと偏りはあったようですね。ちなみに小室直樹氏はマックス・ヴェーバー研究の第一人者、大塚久雄氏に師事し、その後宗教を研究しています(なんかまた、マックス来ちゃった。笑)。

 

 こちらの書籍は1981年刊。

 河合隼雄先生の本は1982年刊です。

 

 共通点は、主に宗教観から日本人の心や社会の在り方の「構造」を論じている点でしょうか。

 

 河合隼雄先生は「中空」構造を説き、山本・小室両氏は、たとえ実態が無くても機能さえすればいいという「空気」を中心に置く日本人の独特なあり方を「日本教」と説いています。この対談で最後に渋沢栄一こそが日本の奇妙な資本主義と日本教を体現する存在として挙げているのが興味深かったです。

 

 どちらの本にも時代、というものを感じます。戦後三十数年で、話題はまだ戦前戦中の生々しさや戦後の安保闘争の騒々しさを残しています。確かに思想というのは時代と切り離せないものです。しかし、これらの本のテーマや問題点が、それほど古びてしまったとも思えません。むしろ、今も変わりのない日本人の問題点を鋭く突いていると思います。両氏の対談のあとがきでは「古来変わらないことに愕然とするであろう」という言葉で締めくくれられていますが、それどころか、その後40年も経っているのに、何も変わらないことに驚愕します。

 

 振り返って、世界的な感染症に対する対策や政治の混乱、経済の様子を眺めると、彼ら先達はあの世で何と思っているのだろうなぁなんて考えてしまいます。

 

 みなさん呆れながらも、きみたち、変らないな!まったく、いかにも日本らしいな!と思っているような気がしてなりません。