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家族とは人間の本質的な悩みの種【なんで家族を続けるの?/内田也哉子・中野信子】

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こんにちは。

女優でエッセイストの内田也哉子さんと脳科学者の中野信子さんの対談をまとめた本です。対談なので特別な結論があるわけではありませんが改めて自らを振り返ってみる機会にはなりました。

 

www.kinokuniya.co.jp

 

樹木希林さんと内田裕也さんが鬼籍に入られてしばらく経ちます。ひとり娘の也哉子さんの最近のご活躍も目覚ましいですね。也哉子さんとモッくん(本木雅弘さん)のお子さんたちも続々社会で活躍されるようになっているのを目にすると、自分が年を取ったなと思います。息子の世代は、樹木希林さんや内田裕也さんのことは知らずに育つんだろうなぁと思ったりもします。

 

四十五年間夫婦だった樹木希林さんと内田裕也さんはその結婚生活のほぼすべてが別居でした。何度も警察のお世話になるロックンローラーの父親と女優の母親の間に産まれた也哉子さんは、ずっと自分の家族が「変なこと」に悩み、メディアによって人の目に「晒された家族」であることに悩んで生きてきたといいます。

 

対する中野さんは認知科学者で、テレビにも多数出演されている、売れっ子?の脳科学者です。

 

さて、対談よりもなによりも、まず最初に私が気になったのは「脳科学」が普通に認知されている事実について。

 

あれ?「脳科学」って言っていいんだっけ?当たり前のように「脳科学」と前提してしまってるけれども、これはアリなの?

 

文部科学省では平成19年(2007年)に「脳科学委員会」を設置しています。ですのでこれは確かに存在する分野なのだと思います。しかし汎用的に使われている「脳科学」がカバーする分野は広く、心理学も哲学も認知科学も神経科学も一緒くたになってしまうから、「脳科学」って言葉には「免疫力」と同じくらい注意が必要なんだ、という認識でいました。

 

私が初めて「脳科学」というものに触れたのは、出たばかりの池谷裕二さんの『記憶力を強くする』(2001年)を読んだときです。なんじゃこりゃすごい!と思いました。世界が前進したエポックメイキングだと思って例によって飲み屋で友達に熱弁を振るったのを覚えています(おいおい)。

 

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2000年前後というのは、なんだかいろんなものがゴッチャゴチャだったなぁと今になって思います。ユング心理学者の河合隼雄先生の本も出ていたし、立花隆さんの『脳死』(1988年)『臨死体験』(2000年)が出たり、2003年には『バカの壁』が出ています。2001年にWHOが国際生活機能分類 (ICF)を採択してからはADやLD、高次脳機能障害などの分類も一般に知られるようになりました。認知症を研究していたのは神経科学の分野でしたし、これらはこの20年ほど、ひとくくりに「脳科学」の中に入れられていたように思います。そうでなくても、そう認識している人がたくさんいたと思いますし(実際、対談の中で内田也哉子さんも脳科学というと養老孟司さんを思い出す、と言っていて、中野さんに養老さんは脳が専門ではないと指摘されています)、「なんとなく脳科学っぽい」、いまだに神経科学と一緒くた、という部分もあるかもしれません。それで心ある学者さんが「脳科学」という言葉は正式にはない、ということを言っていたのかもしれません。

 

中野さんの解説によれば、1990年代後半にファンクショナルMRIという数秒・数分単位で脳の見たい部分を見たい解析度・タイムコースで解析できる機器が登場したことにより、脳をめぐる研究が進み、ここ20年ほどで使われるようになった言葉だそうです。そうなんだ。池谷さんが『記憶力を強くする』を執筆された時点ですでに「脳科学キター」と思っていたのに、その後なんだか胡散臭い匂いもまとわりつかせた「脳科学」にやきもきしていましたが、もう「脳科学」と堂々と言える時代になっていたのですね。この20年ですごいことになってたんだ。アップデートが間に合っていませんでした。笑

 

心理学的な話も多々出てきますが、心理学と脳科学の違いについて中野さんは「反証可能性があるかどうかを基準にしている」とおっしゃっていました。

 

心理学は認知・行動分野以外そもそも反証が成り立ちにくい学問ですし、中には実験そのものができないものもあります。

 

 

科学か科学じゃないか、を分けるのは「反証可能性」にしかないとして、心理学や哲学が学問としてどう生き残っていくかに興味があります。「脳」という生物的生理的物理的な存在が「いかに機能するか」が「考えること」だとすると、もはや「考えること」をよりどころにしていた哲学や心理学は、脳の研究や科学によって漸次解明されていくだけのもの、とされてしまうのは時間の問題なんだろうかと。

 

中野さんのおっしゃるには、「自然科学は論理で、人文学は権威。人は論理より権威を好むから、権威を取り混ぜた論理を話すことにしている」とのこと。それは確かにこれ👇にも書かれています。正しいとか事実とか、論理だけでは納得しないし行動にも結び付かない、というあれです。

 

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うーん、人に話を聞いてもらうテクニックとしては確かにそうなんだろうけど、「人文学は権威」だというのは、すこし極論に感じました。偉い学者さんに向かって私なんかがそれこそ反証できるはずもありませんけど。それも権威って気もするし。

 

そうはいっても「科学というのは、統計的な有意差でもって明らかにしていくものなので、それ以外の個性のようなものは、実はまだ科学で扱えていないところもあるんです。科学のほうが経験知より遅れているところもある」「脳科学全体の地図がわからないから、今現在どのくらいわかってきているのかもわかっていない」、という言葉もあり、ちょっとほっとしました。ほっとする、というのもおかしいですけど、必ずしも科学的じゃないことや、認知科学によらない心理学的アプローチが必要なことも、人間にはあるんじゃないかな、と思うので。その「余地」があることにはほっとします。

 

ちなみに中野さんの著書に『毒親』というのがありますが、私はこの「毒親」という言葉にはちょっとだけ抵抗があるのです(英語のtoxic parentの訳語なんですね)。もちろん、もう社会福祉で手助けしないとどうにもならない、命を助けるために保護するしかない子供がいるのもわかるのですが、この言葉だけだとなんかとても主観的な気がするんですよね。幅が広すぎるというか。科学的反証可能性とは逆ベクトルな感じがします。

 

それこそ1970年あたりから20年ほど前までは「アダルトチルドレン」とかいう言葉が流行って?いましたが、もともとアダルトチルドレンってアルコール依存症の親の元(機能不全の家族の中)で育った子供を総称した言葉ですよね。さらに広い意味で機能不全の家庭を「毒親」と称している、という認識でした。

 

 

👇こちらは20年ほど前に読んだ本。こちらは「心理学」分野でした、当時。

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👇こちらはでも、読んでいないので何も言えません。読んでみようかな。

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話がそれました。

 

今回の対談本は「家族」の問題に焦点を当てているわけですが、家族の問題をテーマにすると自然と社会問題につながるわけで、社会全体に関しても興味深い話がたくさんあって、面白かったです。

 

ただ一般的な「家族論」に話が広がるかというと、そこまではいかなかったかな、とは思います。アホウドリのカップルが三分の一はレズビアンだ、という話から、父親と母親の役割がこうであるべき、などということはない、という話まではまあ良かったのですが、「理想の子供の産み方はプラスティックの人工子宮で、生まれた子供は適切な養育者が育てればいいので親に育てられる必要はない。過剰な愛着なんか邪魔なだけ、愛が毒になる」というの中野さんの意見には賛同できませんでした。なんか以前紹介した映画『ザ・ギヴァー』みたいな話です。中野さん自身「この話をすると普通の人なら5時間ぐらい怒る」とおっしゃっていましたが。ただ「向き不向きはあるのだからテクノロジーを利用するのは悪いことではない」という意見のようです。

 

まあねえ。日本は無痛分娩さえなかなか広まらなくて「痛みを持って産むのが美徳」「産みの苦しみを味わってこそ」みたいな社会で、それもどうかとは思いますが。いやはや、ここでも「中道」を目指したい私なのでした。

 

脳をめぐる研究がいかに進歩していろんなことが明るみに出て、わかることが増えても、人間の抱える問題って、それこそ太古の昔からそう変わらないのではないかと思います。也哉子さんが抱えていた「普通の家族がよかった」という「普通コンプレックス」みたいな感情に「脳科学的には普通ですよ」「むしろ樹木希林さんが素晴らしい」って言ってくれる中野さんの言葉はまあ、予定調和的なのですが、かといって内田家がスタンダードになる日はたぶんこない。それより也哉子さんの夫である本木さんと也哉子さんの在り方にスポットが当たると、俳優という職業柄の「婿と姑」の複雑な関係が見え隠れしたりして「いやー、本木さんと夫婦でいるのはすごいな、家族のあり方に悩んで育った也哉子さんだからこそ、受け止めてあげられるんだろうな」なんて思いました。

 

中野さんの考え方は、斬新で若干過激で、ちょっとアレなところもあったりします。でも、社会の在り方や配偶者選びまで、選択の余地の差はありこそすれ、也哉子さんも、中野さんも、互いの配偶者のことを語り合うときは、理解できるところ、わからないところ、違うところ、似ているとこ、好きなところ、嫌いなところを探しながら、幸せを感じたり我慢したりしながら試行錯誤で相手との関係を築いていることには親近感を感じました。

 

余談ですが、この本の中で特に興味深かったのは、中野さんが言っていた「脳において、正しい正しくないの認知の場所と、美を認識する場所はほとんど一緒なんですよ。内側前頭前野という場所でやっています」というところ。

 

だって椎名林檎さんの『青春の瞬き』にそういう歌詞があったんですよ。笑

 

美しさと正しさが等しくあると

疑わないで居られるのは若さ故なんだ

 

って。林檎さん、さすがっす。脳味噌MRIでサーチしなくてもわかってらっしゃる。2行で核心を語れる。すごいです。姉さん、ついていきます(って私の方がずっと年上ですけど。笑)。