みらっちの読書ブログ

本や映画、音楽の話を心のおもむくままに。

友だち追加

エウレカと叫び、元栓を締める【エピデミック/川端裕人】

 

 SARSが2002年から2003年で、新型インフルエンザが2009年。どちらも日本は水際対策によって免れた、あるいは最小の被害で済んだ、とされています。この作品は、SARSと新型インフルエンザパンデミックの間、2007年に出版されました。本格的疫学小説、だそうです。

 

 首都圏の海に近いとある小さな町で起こった感染症をめぐって、疫学のエキスパートたちが「元栓(感染源)を見つけて、締める(拡大をおさえこむ)」ために奔走する10日間(後日譚として半年後)の物語です。2019年から現在に続く新型コロナウイルスパンデミックとあまりにも重なるところが多く、驚きつつ読みました。これが小説とは。2007年刊とは。もはや予言の書にしか思えません。

 

 というよりも「感染症をめぐる対策と収束」というのは、もともとこういうものなのだと思います。それを、私たちが知らなさ過ぎた、あるいは無視し続けていただけの話で、疫学や医学に携わっている方々にはあらゆることが「今にはじまったことではない」という感覚なのかもしれません。この小説は、それを詳細に丁寧に追っている、ある種のシュミレーションであり、モデルケースとも言えます。

 

 「エピデミック」とは「ある特定の地域でとどまった感染爆発」です。SARSの時も新型インフルエンザのときもパンデミック(世界的大流行)でしたが、新型インフルエンザの時はともかく、SARSは日本ではどこか対岸の火事という感じで収束しています。それはひとえに水際対策に奔走した方々のおかげだったと思いますが、2019年のCOV-2により現在、ついにパンデミックに飲み込まれた日本においてはただでさえよくわからなかった感染症の正体以上に、「初めての体験」が多すぎたのではないかと思います。証拠に台湾はじめSARSの教訓を存分に活かして政策をとっている国も多いと聞いています。

 

 さて、この小説の舞台にはたくさんの偶然があります。そして読者には、あらゆる「原因の可能性」がばらまかれて見えます。原因は果たしてどれなのか。感染拡大は押さえられるのか。スリリングな展開です。この小説に登場する疾病は相当の点で新型コロナウイルスに似ていますが、麻疹にもにています。ギリギリで空気感染ではないレベルというのが妙に暗示的に感じてしまいます。とはいえこの小説の第一次感染者の症状は劇症で、この疾病にり患した方の描写の衝撃度は高いです。

 

 群像劇で、中心になる人物は、医師でフィールド疫学者である、島袋ケイト(しまぶくろ・けいと)です。ほかにも地元の小児科の医師、基幹病院の医師たち、ケイトの同僚で獣医資格をもつ疫学者、ケイトの上司と恩師、保健所の職員、マスコミ、感染症センター、厚労省と、様々な視点から描かれています。

 

 ケイトは近くのC市での仕事を終え帰宅する途中雪に阻まれ、たまたまそこから遠くないT市のほうで壮年のインフルエンザ重症例があるという話を恩師から聞き、その街に降り立ちます。そしてそこで発生の初期段階から新興感染症に関わることになるのです。後から来た同僚の仙水望(せんすい・のぞみ)とともに、彼女は恩師で小児科出身の学者・棋理文哉(きり・ふみや)から与えられた知識と経験を総動員して、探偵のようにこの疾病の傾向と対策、そして原因を突き止めていきます。

 

 棋理は「感染症とは、つまり生態系の問題なのだ」と言い、自分たちにとって「(感染を未然に防いだら、誰も病気にはならないのだから)成功とは評価されないこと」だと言います。彼ら疫学者たちは、疫学に対しそれぞれ思うところを持っています。仙水は「日本の社会に疫学が根付かないのは、根本的に我々の社会が科学的な思考に慣れていないから」だといい、ケイトは「実験ができる諸科学や、理論的な諸科学の領域から見ると―――つまり、ほとんどの科学から見ると―――かなり荒っぽいし、いい加減だ。そんなところでぎりぎり科学的であろうとするからこそ凄いのだ」と思っているけれども一般に伝わらないことも感じています。様々な想いを抱きながらも専門家としての矜持を持ちつつ、ケイト達棋理の弟子は、疫学の基本に忠実に「時間・場所・人」を調べ上げ、数理モデルを駆使しながら、フィールドワークで原因を探っていくのです。このあたりの頭のキレる恩師と優秀な生徒の活躍は、なんとなく森博嗣さんの小説を連想しました。

 

 「XSARS」と名付けられたこの新興感染症をめぐって、地域、市、県、国という場所で色々な思惑が動き、様々な事柄が起こるのですが、この「エピデミック」はわずか10日間で原因がわかって収束に向かった感染症だったため、国や政が本格的に動くところまでは至りませんでした。しかしその一部のエリアをめぐる政治的な動きだけとっても、とても簡単に動くものではありませんでした。「集団感染の対応は、科学や医学だけで決まるものではない。むしろ政治なんだ」という厚労省の感染症課課長の言葉は小説内の言葉とは思えません。

 

 人々の集団心理も相当なもので、作者はそのあたりも丁寧に描いています。「大きな感染症の流行があると、必ず陰謀説が持ち上がるのよ。SARSでも『陰謀論』があったの。でも、こういうので、いまだに本当だったためしはないわ」。島袋ケイトは断言します。また、メディアの役割についても棋理の一言で一石を投じています。「メディアはアウトブレイク対応の特殊性を学び、求めるべき正確さの水準を時々に応じて調整すべきなのではないかな。メディアの役割とは、情報の発信者と受け手との間に入り、そういった調整役を担うことなんだと思うよ」。

 

 こういったことを考えると、このコロナ禍の現在、COV-2に関わっている臨床医師や感染症医、疫学や病理の専門家、病院や地方自治体など様々な関係者のご苦労がいかほどかと偲ばれます。そして小説に描かれるほど「パンデミック時には当然起こり得る」事柄について、今現在、現実的に「政治」「差別やデマの抑制」「メディア」がうまく機能し動いていかどうかというと、なんだかうすら寒いような気もしてきます。


 途中正体不明の強大な脅威の暗喩として「リヴァイアサン」が出てきますが、謎の海の怪物としてのものと権力(あるいはそれに比肩する力)との両義的な意味でつかわれています。劇中示されるあらゆるヒントは、どれもこれもが「原因」のように見えます。動物愛護団体の施設や、過去に問題を起こした新興宗教の施設もあり、どれもそれらしく思えてくるのです。しかし最後には「ああ、あれが」という納得がおとずれます。リヴァイアサンともつながり、そうだったのか。そう言うつながり方か、と腑に落ちます。

 

 感染症との戦いは終わることはありません。ひとつが終わったとしても、次は大丈夫とは限りません。そしてそれが、永遠に終わらないわけでもないのです。ひとつおわって、また始まり、また終わって、はじまる。それが感染症との闘いのすべてだと、この小説は教えてくれているようです。

 

※2023年10月1日にサービス終了となった「シミルボン」では、希望者ひとりひとりに投稿記事のデータをくださいました。少しずつ転載していきます。

初回投稿日 2021/4/27  21:42:23