お久しぶりです。
『春にして君を離れ』を読みました。
言わずと知れたミステリの女王、アガサ・クリスティーのちょっとミステリっぽくないミステリです。
アガサ・クリスティーといえば『そして誰もいなくなった』『オリエント急行殺人事件』などとにかく名作ぞろい。この『春にして君を離れ』も、クリスティーの隠れた名作と言われています。
が。
読んだことがありませんでした。
若いころに出逢っておけばよかった、と思いますが、いっぽうで、今読んでよかった、とも思います。
この本は確かに、ある程度大人にならないと誤読する本だと思いました。
1944年、アガサ54歳の時の作品です。
メアリ・ウェストマコット (Mary Westmacott) 名義で発表した、ロマンス小説とされています。アガサはこのペンネームで6冊の本を出しているそうですが、私が読んだことがあるのは今回読んだこの『春にして君を離れ』だけ。このタイトルは、シェイクスピアのソネットの一節だそうです。
あらすじは、イギリスのとある片田舎に住む主婦のジョーン・スカダモアが、病気療養中の娘のバーバラの見舞いにバグダッドに行き、その帰り道で悪天候に会い、列車が来るまでの間トルコの国境の宿泊施設に数日足止めを食らい、ひとりになって人生を振り返り、これまで気が付かなかった自分と家族の真実に気が付く、という話。
なんともないっちゃあ、なんともない話ですが、そこはアガサ・クリスティー。読者をぐいぐい惹きつけて離さない筆致は見事としか言いようがなく、「ジョーン・スカダモア」という女性がどんな女性で、どんな人生を送ってきたのか、コラージュの断片を少しずつ貼り合わせるようにして全体像が見えてくる。まさにミステリの手法。主人公ジョーンは、自分という最大のミステリに挑んでいると言ってもいいように思います。
ジョーンは作中、地方弁護士である夫ロドニーと子供たちとの生活がどれほど恵まれていて素晴らしいかを力説し、出会う人を見下し優越感に浸るという、いかにも世間知らずな専業主婦目線をいかんなく発揮するので、確かに当初は正直鼻につきます。
いつも誰かと自分を比べて、自分のほうが若い、自分のほうがいい暮らしをしている、自分のほうがいいものを持っている、自分の方が、とマウントしているのですが、自分の未経験のことやよく知らないこと、自分より明らかに上の立場だったり素晴らしい人に会うと、委縮して居心地が悪くなり、すぐ離れたくなります。
自分のしてきたことが絶対で、普通とか正義とか正常とか常識とか、そういうものを少しも疑わないで生きてきたのです。そして、その自分の「正しい」人生を、家族は皆肯定し、自分を愛してくれていると信じている。それだけがよりどころで、それだけが自慢なのです。
こういう人、確かにいる。
確かに専業主婦に特徴的かもしれない。
世間知らずで、甘ったれで。
でも自分は誰より世間を知っていて自立していると信じている、そんな人。
数日、夫と離れて異国の地で独りになって、初めて自分自身を見つめ直すことになります。
本当は、私、子供たちに嫌われてた・・・?
本当は、子供たちに自分勝手な理想ばかり押し付けてた?
本当は、子供たちのいうことなんか聞いてなかった?
本当は、夫は、私を愛していなかった?
本当は、夫は他に好きな人がいた?
本当は、夫は別の仕事がしたかったのに、それを無理やりやめさせた?
ぜんぶ、私のせい??
みたいな超ネガティブ思考に陥り、コペルニクス的回転といってもいい思考変換をします。
悪かった、ごめんなさい、許してって言いたいけど、許してくれるかしら。
これからはもっと、他の人の身になって考えるようにする。私頑張る。
みたいな感じで家に帰りますが、帰ったら帰ったで結局は前と同じ。
あんなのは旅先の夢みたいなものよね、という感じで、やっぱり私、幸せだし!子供たちは私のこと好きだし!夫には愛されてるし!誰より最高に幸せな女よ!
みたいになってしまう…ように見えます。
ちょっと、微妙に違うんだけど、夫には同じに見えています。
最後は、夫が彼女のことを語るシーンがラストシーンなのですが・・・
あらゆる書評が、夫に同情的なのに驚きます。
夫は「ああ妻がいなくて幸せで、精神的に解放されていたのに、なんでまた戻ってきたんだ、もう二度と帰ってこなくたってよかったけど、この女は自分がいないとダメなんだからしょうがない、可哀そうな女なんだ」みたいなことを内心の声でつぶやいてます。
書評の多くは、「だめじゃん、結局元の木阿弥。ダメな女だね、ジョーンは」とか「ロドニー(夫の名)可哀そう。気の毒~」「外で働いたらもうちょっとマシな女性だったかも」みたいな感想で、私は愕然としました。
私はここを読んで、
諸悪の根源はアナタです
と思いました。笑
確かに、ジョーンは視野が狭く、女学生がそのまま母になっちゃって、自分の現実を直視しないまま生活している妄想女に見えます。
夫が「牧場をしたい」と言えば「だめよそんなの。こどもがいるんだから。あなたは弁護士の資格を持ってるんだし、就職先もちゃんとあるんだから、弁護士になって!」と言います。夫が好きなことはことごとく否定。夫の優しさに甘えて言いたい放題、やりたい放題——に、見えます。
子育てに関しても、子供のことはナニーに任せっぱなし、子供たちの感情に目を向けることもないし、困ると夫に全振り。経済的にも精神的にもどっぷり夫に依存しています。自分のいいようにしか解釈しないから説得しても無駄。確かに、つける薬のない女性ではあります。
でも、夫も結局、自分の意思というものを常にはっきりさせない人なのです。
絶対に牧場経営をしたかったら、そんなに経営に自信があるんだったら、好きなことをしたいんだったら、子供がいても離婚すればいいし、子供が好きなら引き取ればいい。
結局彼女の言いなりになっているのです。それなのに上から目線で「可哀そうな女」と思う女と連れ添い、好きになった女性に告白もできず、ただ心で思うだけ。
子供たちとの関係も、どうせ聞く耳を持たないからと子供たちの聞き分けのいい親になるだけで、妻と正面から向き合わないのは彼も同じなのです。
彼女と離婚もせず、彼女を「しょうがない、可哀そうなひとなんだ」と思うことによって、自分を保つ。なんだ結局、この人も共依存だし、むしろすべてを妻のせいにしている時点で自分は全然悪くないと思っているのなら、そっちのほうが悪い。
確かに母親として全くダメなのに「私は立派な母親よ」と思っている女は滑稽ですが、夫もだめんずです。お互いの妄想の中にいて、夫だけ苦しんでいるから傍目に夫が可哀そうに見えるだけ。
一緒になることで成長しない組み合わせ、というのがあって、この夫婦の場合はそれだなと思いました。
日本では、このジョーンが専業主婦だからどうのこうの、という書評をよく見かけます。でも、当時の時代的にも、イギリスという国にしてみても、専業主婦だから幼稚なんだ的な発想は日本独特だと思います。
この話では確かにジョーンが「弁護士の妻というそこそこ裕福な生活をしているから専業あたりまえ」みたいな顔をしているのでそういう発想になるのだろうと思いますが、個人主義の国では、それぞれの事情があるのが当たり前なので別に「専業主婦だから駄目」という発想はないと思います。これはこの夫婦の、この女性の個人的な人格の問題として考えて欲しいものです。
どちらにしても、自分のことを見つめるということは勇気の必要なことで、期せずしてその機会を得た女性の心模様を、こんなふうにミステリに仕立て上げられるアガサ・クリスティーの手練手管に感服します。
未読の方はぜひ。