みらっちの読書ブログ

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女のことばをめぐる冒険【女ことばってなんなのかしら?/平野卿子】

 

 「女ことば」については、常々疑問に思っていた。

 というのも、私は趣味で小説を書いたりするのだが、そのときに使う「話し言葉」が、ある時から気になって気になってたまらなくなったからだ。

 

 少女の頃、はたまた大人になってからも、私が読んだ小説中の話し言葉では、女性は「そうね」「そうだわ」「そうかもしれないわね」「そうだったかしら」という言葉を普通に使っていたように思う。

 

 私が若い頃、話し言葉を特に愛用していたのは「少女小説家」、いまでいう「ラノベ」の作者だった。以後、急速に小説の中の女性の言葉は変化していった、と私は思っている。氷室冴子、新井素子など、当時の年相応の若い女性「らしい」砕けた話し方が「売り」で、特に新井素子は一人称を「あたし」と称し、当時の少女たちの絶大な人気を博したものだ。

 

 それでも「小説」という形式を取っているからにはやはり「セリフ」として「女性か男性か」がわかりやすいことが求められ、一般書籍全体において、常に「女ことば」が使われていたように思う。

 

 女である私が特に違和感を感じるのは、男性の作家が女性の話言葉を「かぎかっこ」に入れて書くときで、彼らが描く女性が「女ことば」であるのは当然であるにせよ、それが結構古臭いことには時折辟易していた。いわゆる文豪小説や時代小説、海外小説ならすんなり受け入れられるものを、現代小説になるととたんに違和感が醸し出される。

 

 確かに、あまりに時代を反映した、砕けすぎる言葉遣いはあっという間に古くなり、年輩の人が若い人に阿(おもね)るように使用した場合のムズムズ感がぬぐえず、さらに流行語など使用したものなら、その書籍は劣化甚だしく、経年に耐えることが出来なくなる(「ナウい」、「ぴえん」など)。

 

 ある程度普遍性を持たせた形で、男女のセリフの書きわけをする、というのは、意外と難しいことなのだ。実際に書いてみると真剣に悩む。ある程度年齢のいった女性と、若い女性、少女を同一のシーンに描くとき、その言葉をどうするか。貧富の差や、職業柄などの立場の差をどう描くか。

 

 そんななかで、やはり「女ことば」を使う場面が出てくるのだ。さすがに「そのお店、どこにあって?」と言ったような言い回しは古すぎるが、「ええ。わかっているわ」「そうじゃないかと思っていたの」と言うような言葉は入り込む。——だがしかし普段、使わない。「わかってるってば」「だと思った」は使うかもしれないが、カジュアルで若すぎる。

 悩んでいたところに、この本を見つけた。

 

『女ことばってなんなのかしら?「性別の美学」の日本語』/平野卿子

www.kawade.co.jp

 

 もちろん、このタイトルは「わざと」である。著者の平野さんは、ドイツ文学の翻訳者だ。私は平野さんのことを寡聞にも知らなかった。1945年生まれと言うから御年78歳である。知らないうちに彼女が翻訳している本を読んでいたかもしれないと訳書を探したが、私は彼女の訳した本や絵本を読んだことがなかった。唯一、最近再読した『トーニオ・クレーガー』を訳した人ではなかったかと思って調べたが、私が読んだのは違うかたの翻訳版だった。

 

 一般小説や児童書、絵本、ノンフィクションなど、幅広い分野の翻訳をしている方だ。横浜生まれでお茶の水女子大を卒業後、ドイツのテュービンゲン大学とニューヨーク大学に留学していたらしい。才媛である。

 

 ———この「才媛」。これもまた、「女らしい」「女性特有の」ジェンダーのフィルターがかかった言葉である。

 

 この本は新書でおそらくは書下ろしなのだが、とにかく例に挙げられる本がすべてフレッシュだ。枕草子、夏目漱石、森鴎外、坂口安吾、谷崎潤一郎から酒井順子、川上弘美、村上春樹、宇佐美りん。村田沙耶香の『コンビニ人間』も出てきた。網野善彦、梅棹忠夫、米原万里、阿辻哲次、多和田葉子、上野千鶴子。ガルシアマルケスの『百年の孤独』の話も出て来たし、スヌーピーの作者シュルツ、ヘミングウェイ、ドナルドキーン、サトウサンペイ……新旧とりまぜた例文が出てきて、それだけでも面白い。序盤にはバカリズムのドラマ『ブラッシュアップライフ』の一場面も出てくる。先日カンヌで脚本賞を取った坂本裕二氏の話も出て来た。例に出てきた『大豆田とわ子』は私も好きな作品だった。

 現代的な言葉を蒐集するのに必要だったからとはいえ、平野さんのアンテナが非常に若いことにまず驚いた。引用索引にある本が全部興味深い。片っ端から読むのも面白そうだ。翻訳をするためには、常に活き活きとした「今の」言葉に敏感なのだろうとまず思った。

 その一方で、当然ながらドイツの作家にも時代を通じて造詣が深く、西洋と日本を照らし合わせながら「女らしいことば」とその役割についての論考がなされる。これがとても面白い。

 

 ジェンダーについて語る時、どうしてもフェミニズムの方面からのアプローチになりがちだが、この本は「言葉の変遷」を通じて時代の流れやうねりを感じることができる。「確かに確かに」と納得するようなことが目白押しなのだ。

 

 先日、フランス語の先生とたまたま「女性名詞」「男性名詞」の冠詞についての話題になったばかり。私はフランス語はほぼひとこともしゃべることができないが、先生に『星の王子様』を読んでもらっている。いわゆる「読み聞かせ」だ。

 先生が大人を相手にただの朗読では面白くないからと言うので、私は「シャドーイング」をしている。先生が言ったとおりに文章を読むのだ。

 

 その時に「la planète」が突然「Ta」という冠詞に変わったので、あれ?どうして?と尋ねると、先生は「planète」は女性名詞だから「あなたの」というときは「Ta」になるんですよと教えてくれた。男性名詞なら「Ton」になるという。

 英語なら「your」や「his」「my」などを覚えればよかったが、フランス語は女性名詞・男性名詞といった名詞の性によって使い分けなければならないし、それが単数か複数かでも冠詞が変わってくるので、相当数の組み合わせを覚える必要があり、文法を知っているのが大前提だが覚えるのに限界があるため冠詞と「セット」で覚えたほうが良いと、先生は言った。

 

 いや。覚えられない、たぶん。無理。

 

 私の脳は即座に拒絶反応を示した。とりあえず、『星の王子様』を耳で聞くことだけでよいことに決めた。

 

 それが、この本によるとドイツ語には「中性名詞」もあるという。いったいどういう脳みそを持っていると、多言語に通じることができるのだろうか。フランス語の先生はフランス人の彼とフランスでの生活に飛び込んで、とにかくまずは耳から慣れ、その後で文法を徹底的にやったと言っていたが、そもそも「耳から慣れる」勇気が持てない。あの時は若かったしなによりアムールがあったのと先生は笑って言った。若さもアムールもない。もはやこれまで。

 

 話が素敵な先生のことになってしまったが、その授業では、少なくとも言語は、文法なしには成り立たないのは確かで、それを無意識にしているのが母語なのだというようなことを話した。確かに私たちは文法を知らなくても日本語を話せる。知っていたらより明瞭に美しく話せるが、一応、生活に支障はない。

 

 とにかくひたすら「女性か」「男性か」を常に意識するのがフランス語なんだなとその時は思ったが、この本を読んで目から鱗が落ちたのがここだった。

 

 とあるドイツ人女性が日本語を学び始めたころ、たとえば大きさが違うだけで色も形も全く同じゴム手袋がスーパーで「男性用」「女性用」と分けられていることに困惑したことがあげられ、

 

(日本の生活の中で)異性とは異なる<女性語・女性用表現>を使わなければならない理由がまるでわからなかった。(中略)類別カテゴリーというものが、日本の日常における一般的感覚、考察、世界観などにとっていかに重要であるかを徐々に理解していったのである。(中略)「性差」というカテゴリーは、やはりここにおいても重要な、いやむしろ決定的ともいえる基準であり、日本語を形成している他の重要な特徴である「年齢」や「社会的階級・上下関係」などと比較しても、より絶対的な要素であるといえるかもしれない。(イルメラ・日地谷・キルシュネライト)

 

 そして今の「女ことば」と呼ばれているものは、日本語の伝統でもなんでもなく、明治から世界大戦後にかけて為政者から推奨され広まったものであり、そのために「女ことばは標準語のみに存在する」と続く。

 

 うはぁ。そうなんだ。どんだけ縛られていたんだ我々よ。

 明治維新の時、もう日本語やめにして英語にしない?漢字なんか全部やめない?といった為政者もいたらしいが、それを「うへぇ」と思っていたけれど、ほんと、この根の深い性蔑視に気づきもせずそんなことをやっていたら大変なことになっていた気がする。案外いっきに公平感がでたかもしれないが・・・

 

 しかし言葉による「制約」、男性が優位であり女性が劣位であるという差別意識の表れであるそれらの言葉や言い回しが存在するのは、決して日本だけではなく、日本が「進んでいる」と勝手に思い込んでいる欧米でも、実は形の違う女性蔑視があるのだ、ということにも、ずいぶん納得。むしろ、日本の方が自由な部分があったし、だからこそより制約の強かった欧米から女性の自由・自立への運動は起ったという。

 

 「女ことば」。深すぎる。

 

 現代は、もはや「女ことば」は絶滅しそうな勢いで消えて行っているのは確かなようだ。この本でもそこに触れられている。もちろん、それは女性がしっかりと自分の意見を持ち、それを発言できる土壌があってこそ。まだ途上と言えるかもしれない。

 

 著者の平野さんは、それでも絶滅することはないだろう、と結んでいる。

 「役割語」としての「女ことば」は残るだろう、と言うのだ。

 たとえば小説、戯曲、脚本、ドラマ、そういった創作のなかで、キャラクターを成り立たせるために「女ことば」は消えずに残る、と平野さんは言う。その一種として、「オネエことば」も残るのではないかと言っていた。

 

 確かに~

 

 もう何度目になるのかわからない「確かに」を心の中で連発しつつ、読み終えた。

 

 そうすると、私の創作時の違和感というのは正しいものだったし、「描写する文化的背景」があってこそ、言葉は生きるということになる。現代劇は風刺や時代の鏡という点からしても現代語が跋扈するため、女ことばは消えゆくかもしれないが、私が描いているのはファンタジーだから、つまりはファンタジーこそ、絶滅しつつある「女ことば」を活かす舞台ということになる。

 

 まったくもって、面白いヒントをいただいた本だった。

 著者の年齢を考えたとき、時代に先鋭であるというのは年齢ではないのだな、と思った。言葉に強い関心があればこそ、今の時代の文化に積極的に触れることになる。こういった感性を失いたくないものだと感じた。

 

 目から鱗を落としたい方にはぜひ、おススメしたい。