みらっちの読書ブログ

本や映画、音楽の話を心のおもむくままに。

友だち追加

そのタブレット、使っていますか?【テクノロジーは貧困を救わない/外山健太郎、訳:松本裕】

こんにちは。

テクノロジーと教育、第2回。

 

前回のオードリー・タン氏の言葉に「テクノロジーは人間の持っている価値をエンパワー(増幅)する」という言葉があったことに驚きました。ちょうど、この『テクノロジーは貧困を救わない』を読み直したばかりだったからです。タン氏がこの本を読んでいたかどうかはわかりません。偶然に、外山さんと同じ結論に至ったのかもしれません。にしても、外山さんがマイクロソフト社のプロジェクトの一環として立ち上げた実験的プロジェクトで、何年もかけて実践的に編み出したことに、どういう道筋を持ってかタン氏が帰着したことに、「不思議」と「納得」を感じずにはいられません。

 

 

マイクロソフトの技術者であった外山健太郎さんについて、ネットで検索してもこの本の著者であること以上の情報が得られませんでした。奥付には、『ミシガン大学情報学部W.Kケロッグ准教授、マサチューセッツ工科大学「倫理と変革の価値観のためのダライ・ラマ・センター」フェロー、2005年にマイクロソフト・リサーチ・インドを共同設立し、2009年まで副理事を務めた。同研究所では「新興市場のためのテクノロジー研究班」を立ち上げ、世界でも特に貧しい地域の人々がエレクトロニクス技術とどう触れ合うかを研究して、テクノロジーが社会的経済的発展を支援する新しい方法を開発した。』とあります。

 

日本人の方のようですが、日本ではアメリカンスクールなどに通っていたようで、基本的には米国で教育を受けキャリアもアメリカのみのようです。そのためこの本は英語で書かれ、松本さんという訳者が日本語にして出版しています。本の成り立ちも膨大な参考文献集がついて、あとがきに長い献辞がついているという、洋書の形式です。技術者の本、というよりは、社会学や哲学などの研究文献のような様相です。

 

表紙があまり本編とは関わりのない写真で、おそらくは「貧困」をイメージした装丁者の意図だとは思いますが、正直言ってどうでしょう、とは思います。本の装幀で損をする本、というのは実は多いのですが、この本もひょっとしたらそうかもしれません。

 

原題は「Geek Heresy : Rescuing Social Change from the Cult of Technology」。

「異端の技術オタク テクノロジー信仰から社会変革を救う」とでもなるのでしょうか。なんか邦題と雰囲気が違いますね。

 

結論はタイトルそのままなので、ネタバレを心配する必要もないほどです。たしかに「テクノロジーが人間社会のすべてを変える」と信じている人は意外と多く、また根強いのではないかと思います。AIのシンギュラリティ(知能の臨界点)が来れば人間の仕事が無くなる、とか、テクノロジーがすべてを何とかしてくれる、という妄信。テクノロジー神話とでもいうのでしょうか。「脳を科学する」学問が進んだら、人間の何もかもが説明できるようになると思う人は実際にいると思います。

 

たしかにエポック的な技術革新は人間社会を変容させているように見えます。蒸気機関が、電気が、インターネットが、スマホが、社会を変えている。それはもちろんその通りです。その技術革新の前後では、社会の在り方が決定的に違うといえます。

 

「技術によって人間は変わるのだ」と信じている人たち。天下のマイクロソフト社において出世し、社が「貧困地域」と定めたインドの街で、教育による貧困撲滅プロジェクトを立ち上げた当初の筆者もそのひとりでした。

 

「PCやインターネット環境など最新技術が整いさえすれば、貧困地域の人々の生活が飛躍的に発展し、貧困を抜け出すであろう」というのがそのプロジェクトの「仮定」であり「目標」だったのですが、それは見事に覆されることになります。国が小学校に機械的にPCを配っただけの地域ではそのPCが故障した後は棚にしまわれて埃をかぶり、このプロジェクトでPCを使いやすく改良し、鳴り物入りで「PC教室」のようなものを開いても、一時的に興味を集めはしても、それが彼らの生活や人生を変えるほどのものにはなりえず、プロジェクトはあっけなく終了。人々は「娯楽」としてのテクノロジーは求めても、それを「教育」として活かし、自分の人生を変える切り札として学び身に着けられませんでした。それがなぜか、筆者は悩み、帰国してからも研究を続けることになります。

 

研究の結果、筆者は「テクノロジーというのは良くも悪くも人間の能力を増強する」という結論に至ります。彼はそれを「テクノロジー増幅の法則」と名付けました。そして「テクノロジーだけではだめだ。良質なテクノロジーは人間の助けであるべきだが、それには継続的人的支援と良い教師があってこそだ」という結論にいたるのです。

 

貧困地域でモノだけを充実させたところで、継続的なメンテナンスと良い方向に導く教師がいなければ「それを活かす」方法を知ることができません。また人間というのは、基本的に易きに流れる生き物なので、困難なことをあえて選ぶことはありません。社会のシステムや成り立ちや事情を無視し、「箱」や「機材」だけで貧困を救おうとは、そもそもの仮定にちょっとした瑕疵があったような気がしてなりません。

 

え?ほんとにパソコンとインターネットさえあればよその国の貧困層の人々を救えると思ってたんですか?とは若干、思ってしまいました。

 

テクノロジーというのが「現代において我々先進国が受けている恩恵」という意味(上から目線)で書かれていることも気になります。先進国などの一部の富裕な民が、施しをもって貧しい人を助けなければならないというノブレス・オブリージュな精神というか。今自分がいる世界が「最善」だと思っていなければそういう発想にはなりません。

 

外山さんは、最終的には「テクノロジーを有効活用するためにはまず人間教育だ」となり、後半はテクノロジー云々ではなく教育論が展開されていきます。色々と困難なことにもぶつかるのですが、それでも人のために(実験のためかもしれないけど)一生懸命インド社会を変えて行こう、人々を貧困から救おう、とする熱心さは伝わってきます。

 

 

オードリー・タン氏はテクノロジーの使い手が人間であることを実によく知っているようです。少なくとも彼女はプログラマーというよりも「ホワイト・ハッカー(ハッカーにも色々いて、必ずしも犯罪に結びつくブラック・ハッカーだけではなく、社会によりよく活かしていこうとするホワイト・ハッカーもいるのだそうです。というよりもともとハッカーとはそういうもので、ブラックの方が異質だったのだけれど、イメージが定着してしまったとのこと。『Au』より意訳抜粋)」だったので、このようなプロジェクトの「前提」にはあらかじめ疑問を持つかもしれません。そしてそれは「欧米型」の視線と「アジア型」の視線との違いもあるのかもしれません。

 

現在、コロナ禍における日本の教育の現状を鑑みるにつけ、外山さんが最初におかした過ち「モノ・環境さえ揃えれば」という側面が無きにしもあらずというのを感じます。たとえば自治体や学校・大学などで、リモートでオンライン授業をする場合。「タブレットを買い与える」という選択を取った学校や自治体もありましたし、あるいは既存のプラットフォームであるGoogleやZoomなどを使う、通信教育や予備校や塾などの作ったシステムを使うなどの選択をして、なんとか「学びを止めるな」を実行しようとしました。実際、これまでたくさんの試行錯誤をしながらやってきたのを見聞きしています。

 

しかし果たして管理者の誰が「まずは基本メンテナンスと教師」と思ったでしょうか。指導する側は「モノ」はあれどもどうしていいかわからない、試行錯誤でそれぞれがバラバラに使い始めた、というのが現状だったのでは、と思います。現在に至っても、どれだけの教師が、そのテクノロジーを使いこなしているか・・・。子供のネット環境はバラバラ、教師の対応もバラバラで、いまだに、どうしていいのかわからないのが現状なのではないかと思います。時間短縮やオンライン授業でえた成果は、これまでの授業であげていた成果の、果たしてどれだけの達成率なのでしょう。もはや「そのタブレット、使っていますか?」みたいな状態になっていないでしょうか。

 

ワクチンや予防習慣によって新型コロナウイルスとつきあっていく時代になっても、オンライン授業やオンラインでの学びはこれからも進化していくと思います。テクノロジーを利用した教育というのはどんどん開発されて行ってほしいと思うし、実際にそうなっていくと思います。とはいえ、それを使うのは人間。人間を教え導くのも維持していくのも結局は人間。今後、どんな風にテクノロジー、デジタルを活かした「教育」が進んでいくかに注目していきたいと思います。