みらっちの読書ブログ

本や映画、音楽の話を心のおもむくままに。

やっぱり最後は人間、という希望【窓際のトットちゃん/黒柳徹子】

こんにちは。

テクノロジーと教育、第4回目。いちおう、最終回です。

 

今日は1980年代のベストセラー、『窓際のトットちゃん』のお話です。

 

窓ぎわのトットちゃん 新組版 (講談社文庫)
 

 

 

先日、オードリー・タン氏の新聞記事が話題になり、本を読んだことはこのシリーズの①で書きました。

 

その直後、こちらのエッセイを読んでいたら、劇団主宰で女優さんの、桑原裕子さんのエッセイ「ハエちゃんのこと」にいきあたり、そこに『窓際のトットちゃん』が登場したので、これもまた縁と、ふと、トットちゃんも読み直してみたくなりました。

ベスト・エッセイ2018

ベスト・エッセイ2018

 

余談ですが、「ハエちゃん」(このあだ名の由来も結構衝撃でした)も、トットちゃんに負けず劣らず、なかなかの自由人っぷりでした。このエッセイもそういうお話です。しかし、やはり素晴らしい先生に出会っていたようで、その先生にまつわる話には、オードリー・タン氏とよく似たエピソードがあって、面白かったです。

 

オードリー・タン氏は小学校1年生の時に「1たす1」を習ったとき「二進法だと1たす1が2にはならない」と言って先生を困らせたようですが、ハエちゃんの場合は先生がお母さんを呼び出した際に「ゆうこちゃんには、1たす1は2ではない答えがあってもいいのではないかと思う」と言われた、とのこと。すごい先生です。実際、お母さんは「ハエちゃん」のことで困惑した時にトットちゃんのお話を思い出して、とても勇気づけられ、希望を抱いた、とエッセイには書いてありました。

 

さて、『窓際のトットちゃん』。初めて読んだのは中学生だったと思います。今回改めて読み直して、大人目線・親目線で、今まで気づかなかったことに気づくことがあり、新鮮な気持ちで読みました。

 

黒柳徹子さんにとって奇跡のようなタイミングでトモエ学園があったこと、小林校長先生のような信頼できる大人や、おおらかな母の存在、そして「きみは、本当は、いい子なんだよ」というひとつの言葉が、黒柳さんの心を人生を支えることを眼前にして、心震えるのは間違いないことです。今読んでも、電車の学校や自由な授業はうっとりする夢のように素敵で、子供時代の感性を忘れない黒柳徹子さんの活き活きとした文章は胸をうちます。まるで長靴下のピッピみたいな、トム・ソーヤーとハックルベリー・フィンみたいな毎日!

 

でもしかし、悲しいことに初めて読んだ日から何十年も経ち、私はすっかり大人になってしまいました。トットちゃんが教室にいることで、苦い気持ちがあったであろう教師がいたことも想像できるようになってしまったし、本には、バイオリニストのお父様やエッセイストのお母さまをはじめ、ご高名なご親戚や有名人のお話が沢山出てきて、やはり一般の家とは異なる裕福な環境だったのは確かだったのだなと(だからこそトモエ学園とも出会えたのかも、と)、改めて思いました。全く年はとりたくないものです。

 

 

さて今回、初版から、文庫版、新組版と版を重ねるたびのあとがきを読み直し、そちらでも色々と発見がありました。

 

文庫版のあとがきは、出版から三年後のことで、600万部を超える戦後最大のベストセラーになった戸惑いについて書かれています。

 

でも、これは、女性が作った、初めてのベストセラーとも、いわれました。ふつう、ベストセラーというのは、男の人から始まるそうですね。この本に対して、男の方は、かなり拒否反応が、あったようです。〝表紙が女っぽい〟〝タレントが書いた〟〝ベストセラーになった〟。これだけで、もう、手をつけない男性が多かったことは、書評を書いて下さった、ほとんどの男の方が、 「……そんな理由で、読まないでいたのだが、家人が、どうしても、すすめるので……」  と、書き出しにお書きになったので、わかったんです。でも、読み始めて下さった方たちは、本当に、必ず、いい書評を書いて下さいました。強くおすすめ下さった、家人の皆さん、本当に、ありがとうございました。

 

初版が1981年でしたので、1984年のことです。なんというか、さもありなんなことではありますが、じつに時代を反映しています。

 

さて、そのさらに22年後の、新組版のあとがき。

また、この頃、LD(日本では学習障害というように訳されていますが)の子どもが増えていて、というか、LDという事が、わかって来た、といったほうがいいと思いますが、LDの本には、たいがい私の名前が出ています。これは、どうやら、LD専門の先生や研究者が『窓ぎわのトットちゃん』をお読みになると、私の退学になったあたりが、どうしても、LDっぽい、という事になるのでしょう。ですから、そういう本のあとがきに、小さいときLDでも、黒柳さんのような大人になれるのですから頑張りましょう、というような文章が、多くあります。黒柳となくても、「テレビなどで活躍して、ユニセフの親善大使でもあるKさんのように」と、私と、はっきりわかる頭文字のもありました。私は、自分ではLDと思っていませんでしたが、いずれにしても、このトモエ学園の教育は、偶然にも、LDの子どもの教育に、ぴったりだったのだ、とLDの本を何冊か読んで思いました。

 

こちらもまた、時代を反映しています。黒柳さんにとっては「LDだった」と言われることがあまり本意ではなかったのであろう気持ちが、文章の中に見え隠れしています。それはそうだろうと思います。個性的な子供たちが自分を受け入れてもらえることで自信をつけ、人生を歩んでいける希望を伝えたくて書いた本なのに、「学習障害」と決めつけるような言い方をされるのは面白くはなかったかもしれません。でも、「LD」や「ADHD」と診断を受けた子供たちがまた、この本で励まされたであろうことも、間違いないことだろうと思います。

 

 タン氏の評伝を紹介した時に、タン氏が大学の先生に「HSC(ハイ・センシティブ・チャイルド)」と受け止めてもらった、とこのブログにも書きました。「HSC」「HSP(ハイ・センシティブ・パーソン)」とは、「感覚の鋭敏な人」を指す言葉です。

 

たとえば「味覚(や舌)」が敏感だと、「イチゴのブツブツの舌触りが気持ち悪くて吐く」といったようなことになって現れますし、これは「視覚」とも連動する場合があります。他にも「眩しい光に耐えられない」「ある特定の色に過敏に反応する」「聴覚や嗅覚が鋭敏で外出がままならない」など、とにかく通常ではあまりない、特殊な認知をしてしまう人のことを指します。

 

五感全てにおいて、という人もいますし、ある感覚だけということもあります。「共感覚」といって音と色を同時に感知するものも含まれるそうです。「共感覚者」は昔からいて、ゲーテなどもそうだったようで、古来、芸術家には多く存在しているようです。ニュートンは「色彩と音階」を研究していました。歴史上、科学上の発見が進まないうちは、特に「音・色」というのは一緒のものとしてとらえられることが多かったようです。また、他人の感情に同調しすぎてしまう「エンパス」は、共感能力が高すぎて、周囲に悪意のある人がいるだけで気分が悪くなる、誰かが怪我をすると自分のその部位に痛みを感じる、など、相手の感覚を「自分のこと」として感じるといいます。

 

だんだん、昔で言う「超能力」みたいな話になってくるので、これらは医学的な「脳・精神医学」の分野(発達障害自閉症など)と、心理学や哲学から出てきた分野(気質研究や認知・心のトレーニングなど)と、オカルトやスピリチュアル(癒し商法・宗教・嘘・デマ・詐欺など)と、分けて考えて行かなければなりません。今はかなりゴチャゴチャで、詐欺などに騙されてしまう人も多数いるようなので、気をつけなければなりません。

 

少なくとも「HSC・HSP」は医学的に認められた用語ではないので、医者に「HSP」だと思うんですが、と言っても相手にしてもらえません。

 

HSP」はアメリカの心理学者のエレイン・アーロン氏が1996年に提唱したといわれています。「病気」として医学で扱うものではないので、検査で診断を下すことができません。お医者さんは、「世間でそういう流行があるんだな」くらいの認識はしているかもしれませんし、そういう気質から二次障害を引き起こすこともあるだろう、と考えるお医者さんがどこかにはいるかもしれませんが、基本的には「HSP」で診察、ということはありません。

 

「過敏」「敏感」な人は不安を感じやすいので「不安障害」や「うつ」になりやすかったり、子供ならば身体的な症状として現れてきたりもします。日常生活に支障があるほどの人であれば、「症状」が現れて「病気」扱いになり、そこで初めて「診察」になります。

 

普通に生活している私たちにも多かれ少なかれそのようなことはあります。日常生活に支障があって悩んでいない限り、「HSP」は一種の「気質」「性格」であり、特徴や個性です。どんな人にも「耳から聞いた方がわかりやすい」ということや「視覚情報がないと覚えられない」ことなどもありますから、特別なことではありません。少なくともそんな言葉が社会に浸透してくる前は「感受性の強い人」「神経質な人」など「性格」「気質」として片づけられていたと思います。でも、そういう「性格」や「気質」がある、ということを周囲に受け止めてもらえるかどうかはとても重要ですし、下手をすると一生を左右するようなことにもなりかねません。

 

タン氏は並外れたIQとともに並外れた感受性の持ち主でもあったようですが、大学の教授などに「HSC」として認めてもらったことで、だいぶ楽になったようです。

 

『窓際のトットちゃん』を読むと、トットちゃんの行動にはすべて自分なりの理由がありました。集団行動には、確かにちょっと大変なところもあったかもしれませんが、今からするとトットちゃんが特別特殊だったとは思われないようなことが多々あります。どのような特性に関してもそうですが「所属する場所からはじかれるかどうか」が問題なんだと思います。

 

 

テクノロジーによって精神疾患や脳の状態がわかり始めたいま、それによって理解できることも沢山あると思います。それこそ、CTやMRT、血液検査でわかる疾患も沢山ありますし、そういう疾患がもとで精神症状が起こっていることがわかる場合もあります。薬によって症状を抑えることで本人が楽になることもあるかもしれません。

 

そうした疾患があってもなくてもなんらかの「困った」特性があった場合に、特に子供の場合は、トットちゃんにトモエ学園の校長先生がいたように、タン氏に教授がいたように、ハエちゃんに担任の先生がいたように、特性を理解し導いてくれる人と人との関係性が、なにより大切なのかも、と思います。それはその、先生たち自身にとっても言えることだと思います。理解者し共感してくれる人がどれだけ周りにいるかで、状況は変わってきます。

 

昨今は、教育が軽視され、教育現場はブラック職場と呼ばれ、教育に関係する人々が報われない時代が続いているように思います。テクノロジー神話に翻弄されがちな様々な本を読むにつけ、必要なのは「人」なんだと思う今日この頃です。