2017年に上野の森美術館で「怖い絵展」が開催された時、私は東京のとある街に住んでいた。
駅のホームでポスターを見かけて、行ける、行きたい、と思った。にもかかわらず、半年後の引っ越しのことや子供のことでなんだかんだと忙しく、気づいたら展示が終わっていた。
行けばよかったと、今猛烈に後悔している。
ジャック=エドゥアール・ジャビオ「メデューズ号の筏」が展示にあったからだ。
「メデューズ号の筏」は19世紀前半のフランスの画家で、ドラクロワなどに影響を与えたロマン主義の先駆者とされているテオドール・ジェリコーの作品だ。当時日本に来たのは、そのジェリコーの作品を、ジャック=エドゥアール・ジャビオが模写したものだ。本物はルーブル美術館に展示されているかなり巨大なもので、人物はほぼ等身大に描かれているという。模写が同じ大きさなのかはわからないが、とにかく、行けばよかった。模写でもいいから観ればよかった。
しかし私がジェリコーについて知ったのは、ごく最近である。
2021年、めったにジャケ買いしない私がひとめぼれして買ったコミックだ。
当然、即、感想を書いた。
この本は大変おすすめだ。漫画だから読みやすいし、ジェリコーや筏の絵のことを知りたいのであればぜひとも手に取っていただきたいと思う。
詳細は上記の感想にも書いたが、ジェリコーはリアリティを求めるあまり実物大の筏を制作し、アトリエに死体を持ち込んでいる。狂気にも似た執念が馬に託されて表現されていて圧巻だ。
ところでこの本には、作者である中原さんがルーブルで観た筏の絵に衝撃を受けたというあとがきがあったものの、2017年の「怖い絵展」には触れられていなかった。つまり私は2021年まで「怖い絵展」を「見ればよかった」と思っていなかったし、2023年の今の今まで、後悔の「こ」の字もなかったのだ。
しかし今は後悔している。
久しぶりに、中野京子さんの本を手に取ったからだ。
中野京子さんが名画について解説した本は、2010年頃に読んだことがあった。図書館で読んだのだったか、一度は買ったのだったか忘れてしまった。夢中になるほど面白いのだが、何冊か読むうちに「慣れて」来てしまうのも特徴だ。
今回、例のスペイン風邪研究?の一環で、『災厄の絵画史』に目を留めた。
日経ビジネス電子版に連載されていたもののようである。
しまった!私は日経ビジネス電子版のサブスクに入っている。本を手に入れてから知ってしまった。これにもまた、ズレが生じている。
「中野京子節」が相変わらず面白くて、ついつい他の書籍も電子版で読むうち、そういえば恐ろしい絵と言えば何といってもジェリコーだよねと思って検索したら、『怖い絵2』という本に所収されていることが分かった。『怖い絵2』は、2008年刊で、もしかしたら私は図書館でこの本に触れていた可能性がある。
ジェリコーと筏のことも知らずに。
もしかしたら読んでいたのかもしれないが、 ゴヤの『我が子を喰らうサトゥルヌス』やアルテミジア・ジェンティレスキの『ホロフェルネスの首を斬るユーディト』あたりに目を奪われて、スルーしていたのかもしれない。
絵画はよほど有名な絵で色々な場所でしょっちゅう目にするとか、派手な構図や色合いなどの印象に残るものでない限り、実際に目にしないと「うわ、そうなんだ……怖いなあ」「ひゃあ、そんな意味があったなんて」とその時は思っても、記憶に残らないことが多い。
どうやら私の中では、ジェリコーとはニアミスを繰り返してばかりのようだ。
さて、今回読んだ『災厄の絵画史』。
ノアの箱舟の大洪水から、三十年戦争、ペスト、大火、梅毒、天然痘、スペイン風邪と、世界を覆った数々の禍(わざわい)にまつわる絵画の解説が繰り広げられている。こんなにたくさんあるんだ、とも思うし、記録として、というより、書かずにはいられないパトスのようなものを感じた。
日本の明暦の大火がローマ大火(紀元64年)、江戸明暦(1657年)、ロンドン大火(1666年)の「世界三大火事」の中に入っているとは知らなかった。江戸の推定人口が50万人に対し、ロンドン40万人パリは45万人と、江戸が巨大な都市だったことも意外だったが、海外で伝えられるほどの大火事だったとも意外だった。
中野さんの「怖い」は、オカルト的な怖さではない。今まで見えなかったものが見えるようになる「怖さ」だ。まるで錯視かだまし絵のように別の絵が隠されているようにさえ感じられる解説は、私たちがいかに漫然と絵を見ているかに気づかせてくれる。「えっ、その足元の小さな花/服の模様/持ち物に意味が?」とか「ギリシャ神話の神が描かれることでそんな寓意が」とか「こんな端っこにこんな人物が描かれているなんて」とか「ああ確かに小さく象徴的なものが描かれているんだ」とか、まずもう驚きの連続で、思わずページを繰って絵画を確認せずにはいられない。
さて、問題のスペイン風邪。最初に第一次世界大戦の惨状とそれにまつわる絵画、ジョン・シンガー・サージェントの『ガス』が紹介される。「従兄弟たちの戦争」と呼ばれた大戦争は、それまでにない化学兵器が用いられ、被害もかつてなく甚大だった。そしてその災厄を止めたのがさらなる災厄であるスペインインフルエンザパンデミックだった。戦争における死者数の4~5倍だったという。スペイン風邪で亡くなった著名人の中でも有名なエゴン・シーレの『家族』が紹介されている。
一枚の絵に、膨大な情報が詰め込まれていることを、中野さんは教えてくれる。そういえばひと昔前に有名になった映画があった。この映画も、絵画の中に埋め込まれた暗号を読み解くミステリだった。最近は、原田マハさんがキュレーターの経験を活かして「絵画を読み解く」小説をいくつも書いている。
中野さんが教えてくれなければ、私たちはただその絵を眺め、悲惨や陰惨を受け取るだけで真の恐怖を知らずに終わってしまうかもしれない。名画には、解説なしに受け取る印象のインパクトはもちろんある。それでも細かくその絵の中に埋め込まれた「暗号(コード)」を読み解く目のおかげで、私たちはようやく、その時代の空気と作家の息遣いに触れることができるのだ。
実はまだ、『怖い絵2』を手に入れられていない。
そこでやっと、私はジェリコーの筏に再び会えるらしいのだが、どこを見ても品切れとなっていて重版する気配がないらしい。
ただ、探していたら中野京子さんのブログを見つけた。
ジェリコーの記事が2007年のもの。遡ると2006年からブログをしていらっしゃる。なんと17年以上コツコツとブログをコンスタントに続けていらっしゃることに驚いた。
最新刊である『災厄の絵画史』。
ヨーロッパ史に特化した本も面白いけれど、この着眼点、私にはジャストミートした。実におススメである。おススメ中のおススメだ。