お久しぶりです、みらっちです。
ついに老眼鏡を買うことにしました。
強度近視なので、眼底の心配はしていましたが、老眼に関しては「まあこんなもんだろう」と思っていた私。
しかし最近、どうも本が読めないのです。
読む気がないわけではないのに、積読が増えていくばかり。
読もうとすると、読めないわけではないけれど、どうもさくさく進まない。肩がこる。
少し離してみたり。近づけてみたり。眼鏡を上に下にずらしてみたり。
気が付くと、途中まで読んだものや、読めそうな章だけ読んだ、つまみ食いして食い散らかしたような本たちがごろごろと増殖していました。
電子書籍で読むときは比較的楽なスピードで読めていたので、変だ変だと思っていたのですが、ある日気が付きました。
あ。そうか。
これが老眼か。
先日、幼馴染のサトちゃんが「ついに私も老眼鏡を買ったよ」というつぶやきをLINEでくれたときは、「ああ私もそろそろなんだよね」と思いながらも、自分の生活の不自由と老眼が結びついていませんでした。
子供の成長も不思議なものですが、老化も不思議なものです。
他所のお子様に、
あらいつの間におおきくなって。
と思っていたら、自分が
あらいつの間にお年を召して。
になる、という感じ。
若いころは「ふーん、いつかはわたしもそうなるのか」と思いながらも、全く実感がなく、ある程度の年齢からは精神的には年を取った感がなくなっていたのですが、筋肉が裏切らないなら肉体の老化も裏切らない。
お店で測定してもらって、呪術廻戦のナナミンみたいな眼鏡をかけたら、嘘みたいに見本の新聞が読めます。
食い入るように新聞を読む私に、測定のお姉さんが
「あの。これはそんなに、読むものではないので」
と、ささっと見本ファイルを隠してしまいました。
これはもう、帰ったら怒涛の勢いで本が読めるわ、と思っていたら、「みらっち様の視力ですと、乱視も入っておりますので、注文して2週間ほどかかります」と言われてしまいました。
買うぞ買うぞと思って行ったのに、手ぶらで帰って来るのはちょっと寂しい。
というわけで、今回の読書も電子書籍です。
いつものようにネタバレありですのでご了承ください。
2021年10月刊行、多和田葉子『地球にちりばめられて』。
再読です。
インタビューで、コロナ禍で国境が復活し、消えたと思っていたナショナリズムもそれとともに復活っしたのがショックだった、とおっしゃっていた多和田さん。
2022年に『太陽諸島』が出て、『地球にちりばめられて』『星に仄(ほの)めかされて』『太陽諸島』の三部作が完結しました。
積読、というより『地球にちりばめられて』で止まっていたので、今回再読し、老眼鏡でパワーチャージして3部作を全部読もうという計画です。
『献灯使』(英語版)で全米図書賞の翻訳文学部門を受賞した多和田さん。言葉の柔軟さ、変化を描いたあの物語を英訳するなんて凄いと思いますが、英語版でも十分に伝わる「エキソフォニック」な世界があったのだろうと思います。私は英語版を読んでいないので何とも言えないのですが。
多和田さんの特徴は「エキソフォニック」文学、というところにあります。
どちらも「note」で書いた感想文です。「Ⅱ」の方ではnote賞なるものをいただきました。
コロナ禍が過ぎ去ろうとしている中、世界がどちらに傾くと言ったら、なんと戦争の方に傾いてしまっていました。100年前のスペイン風邪の後の世界と似たような軌跡をたどって、今はたいへんよろしくない状況と言っていいと思います。
この21世紀に――
ガンダム方面を目指したって戦争戦争なのですから、まあ、宇宙開発に向かったとしても人間と言うものは同じなのかもしれませんが、もう少し人類としての「進化」を感じたいと願うのは私だけでしょうか。
そんな中、多和田さんの描く「国家のない世界」は、とても奇妙でシュールで、ナンセンスなのに、「言葉」を通して何か、希望が見えてくるのです。
国家がない世界、と今私は書きましたが、作中にはいくつもの国家と街が出てきます。しかし、スポットライトを浴びているのは常に「街」のほうで、今も現実にあるはずのその街が、パラレルな、あるいは近未来の世界ではこんな風になっているかもしれない、と思うリアル感に満ちています。
主人公は「Hiruko」と言う名の女性です。
どうやらビョークにちょっと似ているらしい(そのあたりもいい)。
日本で生まれて日本で育ったけれど、ある時留学し、留学中に祖国が滅亡してしまう、という事態に遭遇します。パスポートの更新もできないものの、なにしろ「個人」としてぽつねんと難民・移民になってしまったので、一応救済措置が取られていて、更新のないパスポートでもヨーロッパなら自由に行き来することができるようです。
Hirukoはデンマークに居住し、「汎用スカンジナビア語」(略してパンスカ)を自分で創造して、それを駆使し、円滑なコミュニケーションを図っています。
わたしのパンスカは、実験室でつくったのでもコンピューターでつくったのでもなく、何となくしゃべっているうちに何となくできてしまった通じる言葉だ。大切なのは、通じるかどうかを基準に毎日できるだけたくさんしゃべること。人間の脳にはそういう機能があることを発見したことが何よりの収穫だった。「何語を勉強する」と決めてから、教科書を使ってその言葉を勉強するのではなく、まわりの人間たちの孤影に耳を澄まして、音を拾い、音を反復し、規則性をリズムとして体感しながら声を発しているうちにそれがひとつの新しい言語になっていくのだ。
昔の移民は、一つの国を目ざして来て、その国に死ぬまで留まることが多かったので、そこで話されている言葉を覚えればよかった。しかし、わたしたちはいつまでも移動し続ける。だから、通り過ぎる風景がすべて混ざり合った風のような言葉を話す。
「ピジン」といういい方もあるが、「ピジン」は「ビジネス」と結びついているので、私の場合は当てはまらない。売るべき品は何も持たない。私の扱っているのは言葉だけだ。(『地球にちりばめられて』kindle版「Hirukoは語る」33p)
このパンスカがもう、たまらなく魅力的です。なんとなく、習得の仕方が今流行りの「Duolingo」みたいだなと思いました。読者も魅力を感じますが、言語オタクのクヌートはぐいぐい惹きつけられ、離れられなくなります。Hirukoは英語はできますが話しません。なぜなら英語を話せば、「難民・移民を自国の経済のためにほぼ奴隷のように低賃金でこき使うアメリカ」に送られてしまう可能性があるからです。
Hirukoはある時、同じ母語を話す同胞がいるかもしれないという情報を得て、同胞を探す旅に出ます。旅先で会う人々と繋がり合い、助け合いながら次々と街から街へ旅をしていくのですが、交わされる会話のあまりの面白さに、何度読んでも飽きることがありません。旅の仲間になる個性的な人々が実に魅力的で、気が付くと彼らと一緒におしゃべりの仲間に入れてもらいたいという気持ちが抑えきれなくなります。
言葉。
私たちが存在しているのは、言葉があるからなのだと思います。そして、言葉こそが、人と人とを結びつけ、言葉こそが文化や文明を形作っていくのです。
ほんのちょっと外国に住んだだけでも、なにも思い煩うことなく思いっきり、母語で話したくなることがあります。
もし、母語を話す人がほんとうに一人もいなくなってしまったら。手紙も、メールも電話も、なにひとつつながらず、たったひとり、自分だけのものになってしまったら。やはり、Hirukoのように飢えると思います。「話が通じる」だけではだめなこと、同じ文化文明を共有し、その地盤を当然のものとして話したいという欲求が、湧いてくるように思います。読んでいる間、何度、Hirukoの傍に行って、お話ししましょう!と言いに行きたくなったかわかりません。
Hirukoという名の通り、この物語には下敷きに「古事記」があります。
それもまた、言語の地盤としての暗喩なのだと思います。
まだまだ、旅は続きます。
さらに、『星に仄(ほの)めかされて』『太陽諸島』の旅に出ようと思います。