みらっちの読書ブログ

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幻の第二部を読んでみたかった【海と毒薬/遠藤周作】

こんにちは。

 

今日9月29日は遠藤周作氏の忌日だそうです。

偶然それを知ったので、夏の間に書いていたものを投稿します。

 

 

今年、息子の学校の夏休みの課題図書は、戦争を題材とした本4冊でした。そのなかの1冊が「海と毒薬」。久しぶりに読んでみたくなり、改めて再読しました。

 

最初に読んだのはおそらく高校の時で、渡辺謙と奥田英二ダブル主演で映画になったのがきっかけだったと思います。

 

「どうせ今の時代、病院で死ななくても戦争で死ぬ」

 敗戦の色が濃くなりそんな諦めにも似た空気が支配していた第二次世界大戦時、ある大学病院で米軍捕虜の解剖実験に関わったとして問題になった事件がありました。

 実際に九州大学で起きた事件を題材としたと言われています。

 

 映画は1986年。「あえて」の白黒映画で、当時の私は映画より原作の方がいいと思ったように記憶しています。今Amazonで予告編を見ると、渡辺謙も奥田英二も若い!

 

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 読んだのは新潮文庫。この本は当時読んだものではなく、大人になってからブックオフで買ったものです。

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改めて読んで、注目しているところが以前と違っていました。年月を経て再読するのも新しい発見があって面白いですね。

 

今回気になったのは、実験を手伝った上田という看護婦さんのことです。以前読んだときは私は彼女のことをさほど気にしていませんでした。確かに彼女の手記風の独白に章を割いているので、それなりに重要人物だということは感じていましたが、手伝った看護師さんにも事情があったんだなというくらいの認識でしかなかったと思います。

 

高校生のころは、主人公勝呂(すぐろ)と戸田というふたりの若い研修医(映画では奥田英二と渡辺謙)にばかり注目していて、ふたりの葛藤が、この物語の中核をなしていると思っていましたが、改めて読んでみると、この看護婦さんがとても重要な役割を果たしていたことに今更ながら気づきました。

 

 彼女は結婚し夫について行った満州で、死産し子宮を失いました。夫は満州でほかの女性と関係しており、彼女はいわば女性としての誇りと尊厳を失ってひとり帰国します。戻った職場が、その大学病院でした。彼女には、病院も患者もどうでもいい存在でした。唯一、どうでもよくないのは、彼女から見て女性としての幸せをすべて手にしているような、教授の妻ヒルダです。

 

 ヒルダは外国人で、異国に住んで、無事に生まれた子供がいてそれが当たり前のようにしているばかりか、夫の職場(つまりは自分の職場)に来て慈善事業を行います。ヒルダに奉仕される患者たちはみんな迷惑がり、かといって偉い教授先生の奥様を迷惑だとはねつけることもできず、薄笑いで彼女を見ているだけでした。彼らはせいぜい、有難い仏様のお話などを聞いているだけで、そこに確かな宗教や信仰はありません。

 

職場に現れ余計なお世話をするヒルダを、彼女は憎んでいました。そして、女を道具としか考えられない男たちを、憎んでいました。

 

ヒルダの夫は、自分の医療ミスによる手術の失敗から名誉を挽回するために、自分の妻ヒルダと同じような外国人を秘密裏に解剖(殺害)しました。教授は女を食い物にするより悪い大罪を犯して、「神」を振りかざして他者を批判するヒルダを裏切りました。そしてそれを自分だけが知っていて彼女は知らないのです。上田はそれに留飲を下げます。

 

おそらくこの事件で、彼女だけが確信犯だったのでは、と思うのです。実験は、彼女にとっては私怨を晴らす復讐の代替行為だったのだと思います。

 

戦争と言う巨悪があっても、目の前にあることや日常に目を向ければ、そちらに気を取られて大きな悪を忘れていられることがあります。逆に大きな悪にフォーカスすれば、小さな悪は大したことがないように感じられます。

 

戦時中、戦争が長引くにつれ、人々は厭世的な諦観に蝕ばまれていきました。そんな中で、もし「正しいこと」というのが存在するなら、それを主張するには強さや勇気が必要です。しかし主張すれば自分が今生きている予定調和の世界を崩壊させてしまいます。よりどころなく自らの信念を貫くということはたやすいことではありません。

 

ヒルダが異国でひとり「正義」を主張できたのは、彼女には「神様」がいたからでしょう。神の名のもとに、神というよりどころがあるから、自らの信念に基づく主張を表明することができた、と言えます。勝呂や戸田にもし信仰があれば、そんな実験できるか!と言うこともできたかもしれません。出世はできなくなっても断ることはできたかもしれません。

 

例の看護婦さんと教授の妻ヒルダは、主人公二人に対する裏の物語だったのだと思います。あるいは「同調圧力の海」の中で聖と俗さえもはじかれていく象徴だったのかもしれません。

 

キリスト教徒である遠藤周作氏は、日本人としてのメンタリティとキリスト教世界との間で悩んでいたそうです。晩年、遠藤氏は神の沈黙に疑問を持つようになりました。それはマザーテレサも同じでした。「死ぬ瞬間」を書いたキュプラーロスはそれが「怒り」ですらあったようです。よりどころとしていたものに疑問を持つということの苦悩はおそらくよりどころのない人にはわからないことなのだろうと思います。しかしよりどころとする信仰すらないことは、彼らの世界観からすると右往左往して惑うただの子羊です。

 

 作中、勝呂の口ずさむ詩は立原道造の「雲の祭日」です。

 

 羊の雲が過ぎるとき

 蒸気の雲が飛ぶ毎に

 そらよ おまへの散らすのは

 白い しいろい絮の列

 

この詩は勝呂にとっても、作品そのものにとっても、なにか縋りたくなるような、まるで蜘蛛の糸のような役割を果たしているように思えます。この作品はいってみれば「救い」がありません。もやもやするのです。何か釈然としない。すっきりしない。映画のポスターにも「俺たちは罪を犯したのだろうか」という言葉が書かれていました。

 

みんなが「悪いこと」をしているときに「それは悪いことだよ」ということができなくなる、ということは恐ろしいことです。自分を殺して従うか、そうできなければ「よい心があるということで攻撃される」ということになります。良い心が毒薬扱いになってしまいます。

 

今回再読して「毒薬」の見方が少し変わった気がします。良心が麻痺していくのを「毒に侵される」ことだと思っていましたが、ひょっとしたら「信仰という毒薬」が、「海に喩えられる世間の圧力」の中では何の効力も発揮しない、ということだったのかな、などと思っています。

 

 

 遠藤周作氏は『海と毒薬』執筆後から第二部の執筆をほのめかしていたそうですが、批判や強い抗議を受けて今でいえば「炎上」してしまい、それに驚き傷ついた作者は第二部を書くことを断念したそうです。実質的な続編として『悲しみの歌』という作品がありますが、第二部は結局執筆されることはありませんでした。作品にはいろんな感想を抱いて当然ですが、過激な炎上さえしなければ、順調に第二部を読めていたかもしれないのに、残念なことです。

 

 今年6月、清書まで完了した遠藤周作さんの遺稿が発見されたというニュースがありました。その内容は自伝的なものだと報道されています。ひそかに『海と毒薬』続編ではないかと期待したのですが、そうではなかったようです。これもまた、残念。