みらっちの読書ブログ

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「推し」は世界を救う、かもしれない【推し、燃ゆ/宇佐美りん】

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こんにちは。

 

先日久しぶりに通販のカタログを眺めていたら『推しの祭壇にピッタリ!』と言う惹句が目に入りました。

 

推しの祭壇、とは、自分の好きな人物に関連するグッズを、神棚のように棚に飾り付けることを言うそうです。

 

ついに通販で専用棚が売られるまでになったんだなぁ、と感心していましたが、そういえば読もうと思ってた本があったのを思い出しました。

 

www.kinokuniya.co.jp

 

第164回(2020年度下半期)芥川龍之介賞を受賞作品です。

 

芥川賞は新人作家に授与される賞です。こちらは昨年の9月に出版され、史上三番目の若さでの受賞と言うことで、メディアでも大きな話題になりました。

 

受賞作をすぐに読んでみる方もいるかと思いますが、私はしばらく「寝かせて」読むタイプ。というのも、大きな賞で話題になると、テレビでも会見やインタビューが度々放映されるので、作品よりも先に作者さんを知ってしまうことが多く、いい悪いは別として、先入観ができてしまう気がするからです。

 

若い人が受賞すると何かと騒がれて、求めていない情報が先に入ってきてしまうので、次の芥川賞が決まった時くらいが、味わい時かなと。そう、それが今。笑

 

なんにせよ「読みたいときが読み時」です。

 

宇佐美りんさんの『推し、燃ゆ』

 

とても勢いのある小説でした。

文章が巧みで、読ませる力、ぐいぐい世界に引っ張りこむ力が強いと感じました。

 

残念ながら、年配の読者のかたには、出て来る用語や語彙に注釈がないと難しいかもしれない、という「古典」の逆バージョンみたいな部分も多々あります(本文に注釈はありません。笑)。

 

後世まで残るか、というと、どうなんだろう…

たぶんに現代的にすぎるきらいは無きにしもあらず、です。

 

「推し、燃ゆ」という、タイトルが、まさしくそれを象徴しています。

 

「推し」とは、「他の人にすすめること。また人にすすめたいほど気に入っている人や物」を指します。最近は指し示す範囲も広範囲に及ぶようです。

 

主人公の女の子はありていに言えば「病んで」います。言葉や設定の他に時代を鋭く切り取っているとすれば、その「病」の発露の仕方だけで、実はさほど、テーマとしては目新しくないのでは、とも思います。

 

選考委員だった平野啓一郎氏は、

 

「推した。「けざやか」という古語を何となく思い出したが、文体は既に熟達しており、年齢的にも目を見張る才能で、綿矢りさ・金原ひとみ両氏の同時受賞時を想起した。しかし、正直に言うと、寄る辺なき実存の依存先という主題は、今更と言っていいほど新味がなく、「推し」を使った現代的な更新は極めて巧みだが、それは、うまく書けて当然なのではないかという気もする。」

 (芥川賞-選評の概要-第164回|芥川賞のすべて・のようなものから抜粋させていただきました。)という評を寄せています。選評の中では、こちらの評が私の抱いた感想にも近かったなと思います。

 

 

さて、ここからはネタバレありです。

 

 

 

★★★★★★★以下ネタバレ★★★★★★★

 

 

主人公の「あかり」はアイドルに入れあげて、全財産(わずかなバイト代)ばかりか自分の肉体と精神のすべてを投げうちます。そこにしか「生きている」という感覚を持てないし、「生きている」ことに対する嫌悪を打ち消せないのです。

 

生きていてごめんなさい。

 

これが彼女の心の声です。

どこかで聴いたことがある…

 

そう、太宰治

 

ちなみに太宰治は第一回芥川賞の候補に選ばれますが、受賞はしていません。

 

この時の落選をめぐる一連の騒ぎは、言ってみれば当時の「炎上」でした。

 

簡単に言うと「ちょっとこの人、私生活に問題あるんじゃないの~?」と選評で川端康成が難色を示して落選したことに、賞に固執した太宰が「俺に、敬愛する芥川先生の賞をくれ~賞金五百円をくれ~私生活と文学は関係ねぇだろ~」と、文豪川端康成や選考委員佐藤春夫に泣きついたり、「事実、私は憤怒に燃えた。」などと反論したという、いわゆる「太宰治逆ギレ事件」です。もし当時太宰を「推し」ていた人がいれば、まさに「推し、燃ゆ」の事件だったでしょう。

 

実はこの騒動が話題性を提供し、創設間もなく評価の定まらなかった芥川賞の賞としてのランクを押し上げてしまったという逆説的な事件でもあります。

 

お騒がせ太宰、さすがです。

 

普通、自分のことを新人だと謙虚な心構えでいる作家は、ここまでなりふり構わず賞に固執したりいたしません。凄まじいほどの、自己の文学への自信と、それに反比例するかのような自己否定と自虐が渦を巻いている太宰治。

 

『推し、燃ゆ』を読んで、太宰をイメージしました。太宰の「作品」と言うより、生まれてきて、すみません、と言うあのキャッチコピーです。元々は太宰が作った言葉ではないとも言われてます。

 

なぜあたしは普通に、生活できないのだろう。人間の最低限度の生活が、ままならないのだろう。初めから壊してやろうと、散らかしてやろうとしたんじゃない。生きていたら、老廃物のように溜まっていった。生きていたら、あたしの家が壊れていった。

 

 

 

物語の終盤にそう述懐する主人公のあかりちゃん。

 

読み書きに難のある、発達障害を匂わせる生い立ちでありながら、あかりちゃんのブログの文章はなかなかのものです。ブログのコメントに「あかりんって文章が大人っていうか、優しくて賢いお姉さんって感じよな」と書かれるくらい、立派です。「推しを愛するが故」と言ってしまえばそれまでなのですが、普段勉強ができないという描写との対比に、違和感を感じます。

 

また、「推し(アイドル)」は自分の「背骨(中心)」なので、彼に関係することだけにはまさに脊髄反射的に反応し、それによってテストの点も変わります。努力の結果、物を覚えたり解釈したり考察したり、テストでいい点を取れたりもするのです。

 

あかりちゃんの姉のひかりちゃんは「自分は頑張っているんだけど、できない」という妹に「違う、努力をしていないんだ」、と言います。努力してるなんて言うな、本気で努力している自分が馬鹿にされている気がする、と。

 

実際あかりちゃんは、なまけもの、と言われ、自分の「怠惰に見える努力」はどうしようもないことで他人にはわかってもらえない、と言いながら、

 

聞き入れる必要のあることと、身を守るために逃避していいこととの取捨選択が、まるでできなくなっている

 

などと自己分析するあたり、案外冷静なのです。なかなか「したたか」な面があり、それがさらに、周囲を混乱させてしまいます。半端にできてしまう部分があるため、周囲に思わぬ期待をさせ、結果的にガッカリさせてしまうようです。

 

やればできる部分はある、高校にも入れた、若さもお金も時間もあるのだから、もう少しなんとかできるんじゃないの?と家族も(読者も)思ってしまいます。だいいち、推しに対する愛によって、バイトだってできたじゃないか(実際にはバイト先の温情なしにはまともに勤務できていなかった)、と。

 

そのため、あかりちゃんの「推し活」は周囲(特に家族)を苛立たせます。

 

彼女には、いくつかメンタルの病名がついているようですが、本文中には出てきません。摂食障害などの描写から考えるとストレス性のようです。おそらく二次障害なのだと思います。成長過程で本来支援すべき部分が見過ごされてきたように思います。

 

病気を盾にしていると思われていて、家族からは「また病気に逃げ込む」と責められてもいます。彼女自身はこう感じています。

 

 何もしないということがなにかするよりつらいということが、あるのだと思う。

 

ここでは、カフカの『変身』を思い出します。自分と現実の齟齬が深まって、ある朝目覚めたら虫になってて、話もできない。いつしか家族からも見放されてしまう、主人公のグレゴール・ザムザ。

 

親御さんは彼女が怠惰で甘えていると考え、自立・自律できないことに悩み、ご苦労されているようですが、あかりちゃんの育てにくさに関しては半ば諦めが感じられます。あかりちゃんは、自分は愛されていないと感じていますし、特に女性性への嫌悪が強いようです。自分の肉体に対して肯定的になれず、成長も拒んでいます。

 

母が、にきびを汚いと言った。

 

あかりちゃんは(お姉さんも)常に母を気にしています。彼女の母は常に彼女を否定していますが、母も、そのまた母親(祖母)に否定されて生きてきました。姉は母に気を使い、いい子になることで連鎖の呪縛から逃れようとし、妹が呪いのような連鎖を背負っています。

 

彼女は学校を中退し、ひたすら肉体を苛め抜きます。人に理解されない悲しみを抱えたアイドルに人に理解されない自分を重ね、祖母が死のうが、家族に見放されようが、自分の核を「アイドルの少年(のイメージ)」に同化させていきます。苦行のように。

 

その結果、彼女はグレゴールのように「理解不能」として家族に捨てられます(とはいえ、完全に金銭的援助は絶たれない)。読者は見捨てる家族に冷たさを感じますが、あかりちゃんもまた自分をスポイルする家族に帰属することを拒み続けます。「推し活」によって次第にコミュニケーションできなくなっていく家族とあかりちゃん。

 

しかし、そうまで入れあげた「推し」はある日、ついに彼女にとって「現実の人」になります。

 

ストーカーのまねごとまでしたあかりちゃんは、彼のマンションの前から特別なにもできないまま逃げ帰ります。押しが燃えてからその日に至るまで、ギリギリのところで虚構の住民であり続けた「推し」は、脱退・婚約→現住所の特定によって、リアルの住民になり果てました。

 

推しを喪った苛立ちから、彼女はゴミに溢れた汚部屋に綿棒をぶちまけます。しかし「投げるもの」を選んで後始末を考える余裕のある彼女に狂気はありません

 

綿棒は「燃えた推し」の残骸である骨の象徴です。そしてそれは彼と同化しきって砕けた彼女の背骨でもあり、彼女自身の骨でもあります。

 

骨を拾った彼女にとって、それからが「余生」と決めた本当の人生の始まりなのだと思います。そういう意味で「推し」は彼女を救った、のかもしれません。

 

悲壮感がなく、妙にたくましいラストシーンが印象に残ります。