みらっちの読書ブログ

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【戦争は女の顔をしていない/スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ】

こんにちは。

 

【戦争は女の顔をしていない/スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ

 

ベラルーシのドキュメンタリー作家が500人以上の従軍女性にインタビューしたドキュメンタリー文学作品です。ソ連(ロシア)では100万人をこえる女性が従軍し、看護婦や軍医、兵士として戦いました。しかし戦後は、功績を称えられるどころか白い目で見られ、戦争体験をひた隠しにしなければなりませんでした。完成後2年は出版を許されず、ペレストロイカ後の1984年に初めて発表され、2015年にノーベル文学賞を受賞しました。

 [スヴェトラーナ アレクシエーヴィチ, 三浦 みどり]の戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

私がこの本を知ったのは、この漫画を手に取ったからです。写真の大きさがまちまちですみません。上はネットからで、下は自分の本を写真に撮ったので、ちょっとうまく調整できませんでした。

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最初、帯をよく見ていなかったのですが、買うときに帯の名前が富野由悠季さんだということに気がつきました。富野さんといえばガンダムの生みの親。ちょうどガンダムにハマっていた私は、なんて偶然かしらと思い、富野さんを検索したら、こんな記事を発見しました。

 

ddnavi.com

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映画『この世界の片隅に』については、今回は割愛します。 

 

この対談の中で富野さんは上記の『戦争は女の顔をしていない(ドキュメンタリー小説の方)』を紹介していて、映画『この世界の片隅で』の主人公すずと、従軍していたソ連の女性たちのメンタリティーは同じだった、と言っています。

 

「ソ連の女性兵士もすずさんも、戦時中はみんな彼女たちなりの闘い方で闘っていた。戦争に参加していた。にもかかわらず「男の論理」はそれをはじいてしまう。(ソ連では)彼女たちが守るために命をかけた「共産党」の体制下での戦後であっても優遇はされなかった。むしろ差別を受けた。こういう状況に男たちは「おんなこども」を放り込んで、それでも「戦争が正義だ」と平気で言える。軍にいたとすれば慰安婦だろうとか、そういうふうに取る人が、根強くいる。現代にこの本を読んだ感想にさえそういった偏見にとらわれている人がいることに気がついた。我々の理解力と言うのはかなりひどいところにある。そういう男の論理とはいったいなんなんだろう、そういうことを『この世界の片隅に』は伝えている。悲惨なシーンを見せることや反戦だのなんだの主張するのが反戦映画・反戦なのか?そうではないんだということをこの映画は教えてくれている(引用/要約)」

 

詳細は上記のリンクをご覧ください。

 

『戦争は女の顔をしていない』の監修をしている速水氏は、ここで語られるすべてが事実とは限らない、と巻末に書いています。著者が手を加えることのない実にプライベートな証言から、戦争にどのような顔を見るのかは読者次第だ、と。漫画版第一巻は特に第二次世界大戦中の独ソ戦線に従軍した女性兵士の証言に寄っています。国土が戦場となったソ連では、1億9千万の人口のうち軍人・民間人あわせて2700万人の犠牲者がでました。ドイツ軍は800万人、日本人は300万人だそうです。青年男子一世代がまるごと消失したような損失だったそうです。

 

とはいえ、戦争を反省するにしろ歴史の正当性を言い張るにしろ、最初から「当事者」というグループから女性を除外する、というのが「男の論理」だとすると、女性は二度被害を受けることになります。戦争で、そして男から。

 

「我々は地球人だ」と言った時の「我々」に女(子供)を入れない、と考えれば誰だって「?」と思うはずですが、人間と言うのは集団になるとこういうことを無意識に言ったりやったりします。歴史的にみれば最近はずいぶんいい(はず)ですが、それでも現在「black lives matter」運動が盛んなことをみても、少し前の「me too」にしても、違う性が違う性に、肌の色の違いに、そのような扱いをすることは「ない」とはいえません。人類は病原菌やウイルスも駆逐できませんが、こうした問題も根絶できない問題として抱えています。戦争に関わった人はみんな犠牲者であり加害者であると思いますが、性別だけではなく、様々な差別(貧富、身分、肌の色など)によって、二次被害と呼べるような被害にあう。それは戦時下のソ連だけのことではなく、全世界に、共通してあまねくある、と思います。

 

必死に働いてもただの道具として扱われることへの絶望はたとえばプロレタリア文学と呼ばれるものに描かれていますが、そのプロレタリアが革命を起こした国でさえ、女性に対しての残酷な無視があったのは本当に残念です。

 

女性が戦時に不当な扱いを受け、評価されることもなく、無視、あるいは迫害を受ける、ということに関して、現実には、女性が被害を訴えるのはとても難しいことです。今の時代でも、性被害にあってそれを訴えても加害者が正当に裁かれることは難しいし、被害者が二次被害、三次被害のみならず、相手や世間から何度も傷つけられることがないとはいえません。

 

 戦いに行きたいなんて男が望むことだ。どこか異常だな。女じゃないな。どこか欠けているんだ。そういう声を聞きながら従軍した。

 

女性兵士のひとりは言います。男性標準で成立している軍に「男性として」入隊することを要求された女性たち。下着は男性用しかなく、当然経血の手当てなどできるはずもない。「経血もそのままなので、川で銃撃を受けたとき、男性兵士は物陰に隠れ、女性兵士は川に飛び込んだ。とにかく水で洗い流したい、恥ずかしいという気持ちは死ぬことより強かった、そこで銃撃を受けて亡くなった女の子たちもいた」

 

狙撃兵、飛行士、洗濯部隊、機関士、従軍カメラマン、看護婦。年齢を重ねた女性たちが語る言葉は特別な言葉や感情的な言葉はほとんどなく、訥々と、淡々と語られている印象です。声高に何かを述べているわけではありませんし、戦争の正当性というのは別の問題ですが、彼女たちが必死に戦い、生きぬいたことが強く伝わってきます。そんな彼女たちを見て、敵の将校や飛行士は驚き、味方の大尉は「戦争が終わってもきみたちとは結婚しない」と言います。

 

富野さんは、書籍の『戦争は女の顔をしていない』は部分だけを読むと誤読するから全編をきちんと読まなければならないと言っています。漫画はまだ1巻だけ(最近2巻が出た模様)なので、私も今度は本の方を心して読んでみたいと思っています。書籍・漫画どちらにしても『戦争は女の顔をしていない』は、いいとかわるいとかの善悪の話ではなく、様々な方向から考えさせられる本です。戦争が女の顔をしていればいいという話ではなく、何か理不尽な力によって隠された顔がある、ということだと思います。そして、隠された顔があるのは、戦争だけではないと思います。

 

このブログを書こうと思った日(8/27)、著者のスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチさんを検索したところ、こんな記事を見つけました。

 

www3.nhk.or.jp

 

ベラルーシは、現在混乱が続いているのですね。アレクシェーヴィチさんは、常に社会的な問題に切り込むドキュメンタリーの作家さんで、上記の本以外にも、多数社会性の強い著作があります。