こんにちは。
子供が小学生のころボランティアで「読み聞かせ」をしていました。
実は「読み聞かせ」という言葉を聞くと複雑な気持ちになります。子供たちの視点から見ると「読み聞かせられ」になり、少し一方的に感じてしまうのです。
「読み聞かせ」はすっかり定着していて、もはやそこまで使役の意味を持っていないのはわかっていますが、主催者によっては「おはなし会」と呼ぶところもありますので、なんとなくそちらの方がいいなぁ、なんて思うのです。
さて。今日の話題は「られ」の話です。
『炎炎ノ消防隊』という漫画(アニメ)に出て来る環炬燵(たまき・こたつ)さんという女の子のキャラクターに「ラッキースケベられ体質」*1という設定があり、それがとても気になる、という話なのですが…
あ、でも、最初にお断りしておきます。
私は『炎炎ノ消防隊』、好きです。面白い漫画(アニメ)だと思うし、登場人物も個性的で、物語も魅力的で、続きを楽しみにしています。第七特殊消防隊の新門大隊長はカッコよくて大好きです。
この漫画やアニメが好きなかたや、作者や関係者のみなさんの批判をするつもりではありません。自分が気になったことを、ちゃんと整理してみたかっただけなので、もし、何か表現や内容にご不快な点がありましたら申し訳ありません。また、今回、大変頻繁に「スケベ」という言葉が登場します。すみません。なるべく注意して書きたいと思います。
炎炎だけに炎上しそうで怖い…
「ラッキースケベ」。この言葉の初出は『ガンダムSEED』*2だったとか。ガンダムは「黒歴史」という言葉を初めて使ったアニメなので(『∀ガンダム』)、ある意味時代をさきがけている、と言えるのかもしれません。
環炬燵さんは、幼い顔立ちにツインテール、下着のような服にダボっとした消防服を羽織っています。たぶん「身体から炎が出てしまう」という特異体質のせいでちゃんとした服が着られないということもあるのでしょう。自分ではそんなつもりは一切ないのに、どういうわけか男性に会うと、かなり極端な体勢で転んだりくっついたり、服が脱げたり、裸になってしまいます。それを周囲は「ラッキースケベられ体質」と呼んでいます。
少年漫画には手塚治虫の時代から「お色気シーン」という読者サービスがあります。水戸黄門にも由美かおるさんのお風呂シーンは欠かせないものですし、そういった「需要」があるのは承知しております。
「ラッキースケベ」「られる」。この場合、この「られる」は、受け身の助動詞「れる・られる」。「ラッキースケベ」(+「する」)+「られる」です。動詞「する」、の未然形「せ」につくサ行変格活用で、「ラッキーすけべ(させ)られ(る)」が文法的に正しいと思われます。
「する」が消えていて、あえて主体が不明瞭なのが気になります。
自発の「られる」、「自然に恥ずかしいことが起こってしまう」という「られる」の可能性もあります。どちらにしても主体が曖昧。
私はわりにエロにもグロにも寛容なほうだと思います。「スケベられ」なんて、エロにも入らない、可愛いもんじゃないか、と思う方もいるかもしれません。
しかしこのコタツさんのキャラ設定は「あたりまえ」になってはいけないことを孕んでいると思うのです。
これまでのドラマやアニメの中の「お色気シーン」というのは「偶然お風呂に入っているのを見ちゃった(ドラえもんや水戸黄門)!」などに代表される、「キャーのび太さんのエッチ~」的なものでした。「ごめんね。悪気なかったんだよ~」というのは見た側(おもに男性)でした。
あるいは『ルパン三世』の峰不二子や『暗殺教室』のビッチ先生は、意図的にお色気を発動して男性にハニートラップを仕掛けます。スパイ潜入だったり殺し屋稼業だったりと彼女たちにはそうする理由があり、彼女たちのお色気シーンに読者はルパンみたいに「うひょ~」と思いながらもそのお色気は彼女たちの「仕事」に結びつくことがわかっています。
コタツさんの場合も、偶発性の強い、互いに意志の介在しないアクシデントです。しかし問題は、アクシデントが起こったときに「ごめんなさい」と謝るのはコタツさんで、「いいよいいよ」「気にしないで」というのが、男性のほうだということです。「ラッキー」と思っているのは男性なのに、「女性に非がある」感じなってしまうのが問題だと思うのです。
このアクシデントに遭遇した男性(男性だけとも限らないのですが)は、コタツさんにそっと服を着せてあげたりして紳士的な行動をとっています。男性側はいつも、「向こうからぶつかってきて服が脱げた」「勝手に転んで恥ずかしい格好になった」のを見ているだけです。「コタツさんはそのような体質に生まれたかわいそうで気の毒な子」であり「発生したイベントは自分の意図していないアクシデント」であって「自分に責任はない」。
確かに、彼らに責任はありません。アクシデントに遭った当事者も、それを見ている読者やアニメを観ている人も、誰にも責任がないし、悪くない。責任はどこにもないのです。
にもかかわらず、お色気担当の登場人物が、エロシーンイベントは自分の失敗だから相手に謝らなければならない、という弱者でもあるのはどうなのか、と思います。
コタツさんのシーンが、チラッと見えるレベルではなく、ちょっと行き過ぎな、目を覆いたくなるようなシーンが多いのは、その「責任の不在」が拍車をかけているのではないかと思います。
劇中には、コタツさんのアクシデントに遭遇してみたいと語る男性もいました。コタツさんは男性の間で「噂」なのです。遭遇した時は劇中のどの男性も、ちょっと恥ずかしかったり顔を赤らめて照れたりして、「ま、自分のせいじゃないししょうがないことだよね」というだけです。彼女が悩もうが悲しもうが、そのアクシデントそのものは「むしろちょっと嬉しい」出来事なのです。自分の責任を問われない形でちょっとしたエロを味わえるのはやはり「ラッキー」なのですね。
表現の自由は確かにあります。ファンタジーなんだから何でもありでいいのかもしれません。でもこれを放置すると、女性が誘うんだから仕方がないという男性の「言い訳」を助長するのではないかと危惧します。そしてなにより、コタツさんの「られ」には性的なことと力関係の不公平さが混在している気がしてなりません。
2019年度の東京大学の学部入学式祝辞で、上野千鶴子さんが行った有名な祝辞があります。その中で、上野さんは次のようなことに触れています。
東大工学部と大学院の男子学生5人が、私大の女子学生を集団で性的に凌辱した事件がありました。加害者の男子学生は3人が退学、2人が停学処分を受けました。この事件をモデルにして姫野カオルコさんという作家が『彼女は頭が悪いから』という小説を書き、昨年それをテーマに学内でシンポジウムが開かれました。「彼女は頭が悪いから」というのは、取り調べの過程で、実際に加害者の男子学生が口にしたコトバだそうです。
姫野カオルコさんの作品はこちらです。
これは、俗に言う「胸くそ悪くなる」小説でした。実際にあった事件から着想を得たフィクションです。しかし細部にとても想像で描いたとは思えないリアリティがあって、ゾッとします。
被害者は世間から「東大生狙いだろう」「ついていった女の方が悪い」と言われて屈辱的に罵倒され過剰ともいえる二次被害にさらされます。いっぽう、加害者側は「ただのいたずらを三流大学の子が大騒ぎしたために騒動にされて」と周囲の同情を買ったうえ、本人たちは罪の意識を持っていません。
強者は弱者を駆逐して当り前。そう思うのは当事者だけではなく、世間も(そしてまた読者も)そうなんだということを突きつけてきます。
著者の姫野カオルコさんはこの小説で、レッテルによる強大な力がもたらす暴力、私たちが無意識に持つ劣等感やヒエラルキーなどのパワーバランスをテーマにしています。
『炎炎』作中には、この事件を彷彿とさせる場面があります。
コタツさんの憧れでもあった烈火星宮(れっか・ほしみや)中隊長。優秀で仕事熱心な彼は最初エリートとして登場します。しかしサイコパス的な面を持ち、仲間を裏切ります。悪事がコタツさんにばれると、彼女を徹底的に痛めつけるのです。この時の暴力は、自分の優位、強さ、正義を知らしめるためのものでした。
根底にあるものが同じように感じられます。
烈火中隊長は「いい人」からの転落ギャップがものすごく、笑いながらコタツさんを痛めつけるシーンは少年誌の(状況から性的な意味も含む)暴力としてはかなりのレベルだと思います。最後は「本来の彼は正義感の強い善人だが(悪の組織?に)洗脳されていた」という結論でした。
ストーリーじたいはコタツさんの苦しみに寄り添う展開であり、ここでコタツさんの「られ」が無くなったりでもしたら本当に良かったのですが、彼女のキャラクターの重要な部分として「られ」だけは残り続けます。それがとても残念に思われるのです。
コタツさんはこの事件を通してもちろん傷つくのですが「強くならなきゃ」と思います。「私は弱い。弱いからだめなんだ」。彼女が自立して強くなっていくのはもちろん結構なことですが、でもこれに関してはそもそも彼女を「弱者」たらしめているのは何か、ということのほうが問題なのでは、と思うのです。
Wikipediaによると、ある弁護士さんからはこの『炎炎』の「スケベられ」は「性被害」だと酷評されてもいるようです。わかる気がしてしまいます。
コタツさんは「読者サービス」の犠牲者なのかもしれません。作者さんも本来は、こうした読者サービスを望んでいなかったかもしれませんが、この世の中、女性の裸や破廉恥な姿を見たい読者がいるのだから、そうでもないと売れないと編集さんに言われるなどで「誰も悪くない」シチュエーションを考えた結果の「すけべられ」作戦だったのかもしれません。あくまで想像ですが。
「られ」が必ずしも「犯罪」につながるとまでは言えません。しかし言葉によってレッテルを貼り、主体を曖昧にすることで責任を回避するということは、読んだり観たりしている我々全員にも、ある種の「逃げ道」を与えてしまいます。匿名性の高いネット社会で生きる我々にとって、今や他人事ではなく、世界を取り巻く重大な課題のひとつだと思うのです。
コタツさんは可愛いし、彼女の魅力も人気の理由なのでしょうけれども…
『炎炎ノ消防隊』は「られ」がなくても充分に魅力的だし、面白い漫画だと思うのです。