みらっちの読書ブログ

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ハルキストとアンチの間の森で道に迷う【ノルウェイの森/村上春樹】

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こんにちは。

 

村上春樹は、かつてファッションでした。

 

こう書くとものすごい反論が来そうです。なにしろ高い評価を得ているノーベル賞候補作家で(ノーベル賞だけが獲れないと言われるように他の文学賞は総なめくらいの受賞)、世界中にファンを持つ売れっ子ベストセラー作家です。ハルキストと呼ばれる、熱狂的なファンの方々が黙っていないでしょう。

 

この『ノルウェイの森』が出版されたときのことは鮮明に覚えています。上下巻で、赤い表紙と緑の表紙。クリスマスカラーが目を射るようでした。本屋さんで平積みになっていて、とてつもなく輝いていました。

 

とにかく当時村上春樹は「カッコいい」とされていました。

村上春樹さえ読んでればカッコいい。村上春樹はオシャレ。

 

そんな空気がありました。おそらくこの表紙だって、そういうムードを嗅ぎ取った出版社が、若い人たちをハルキストにするために張った戦略でしょう。

 

ちなみに「村上春樹」「ムラカミハルキ」は私の中ではすでに”ジャンル”なので敬称略します。すみません。

 

そんな風に輝いていた『ノルウェイの森』。さっそくお小遣いはたいて買いました。わくわくして読みました。それが私の初めての村上春樹でした。

 

『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』はすぐそのあとに読みました。

『ノルウェイの森』が面白くなかったから。笑。

 

実際「いやー、面白くないはずない。私が悪い。私の感性が間違っている。みんな面白いと言っている。何か面白いはずだ!なにしろ、こんなに売れているんだから!」と、タイトルでもあり主人公が回想するきっかけとなるビートルズの『Norwegian Wood』を聴いたりしましたよ。Norwegian Woodも物語性はあるけれどもわかりにくい歌詞ですし、男の子がのこのこ女の子についていって残念だった話に煙に巻かれた感じで、「ふーん…」と思うしかありませんでした。

 

そしたら『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』は面白かったし、そこからは夢中になって村上春樹作品を読みました。『アンダーグラウンド』まで。私の中での村上春樹の最高傑作は『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』『ダンス・ダンス・ダンス』も良かったな。短編集や対談、エッセイも結構読みました。『TVピープル』とか、面白かった。

 

『海辺のカフカ』を飛ばし、『1Q84』は読んだけど、それ以後もう、ハマれませんでした。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』『騎士団長殺し』が出ようと、ダメでした。読もう、という気になれない。なんでしょう。終わってしまいました。

 

いえ、ハルキストのみなさんに喧嘩を売ってるわけではありません。単に私の「村上春樹の歴史」の話です。そういうのってあります。終わっちゃうのって。さみしいけれど。熱狂的ファンもいれば、アンチもいるこの世界。その間をふらふら彷徨う人もいるわけです。アンチではありませんが、とにかくのめりこめなくなってしまいました。

 

そんなわけで、私がハマって読んだ村上春樹の中で、ほとんど唯一「面白くなかった」という感想を持った本。それがこの『ノルウェイの森』なのです。

 

どうして面白くなかった本をテーマにするのか、とお思いでしょうか。もっと好きな作品は沢山あって、語りたい作品もたくさんあるのに、なぜ。

 

なんでこれだけが面白くなかったのか、興味が湧いたからです。他の作品はあんなに面白かったのに、どうしてこれだけ、面白くなかったのか。

 

まあ、おそらく「ファッション」として読んだからというのも多分にあった気がします。自分ではそう思っていなかったけど、あのキラキラした装丁ががっつり心に食い込んでいる点に置いて、おそらくあのときは「村上春樹を読む私」に酔いたかっただけで読んでいたのかもしれません。

 

あらすじは割愛させていただきます。いちおう、「アラフォー男性がビートルズの『Norwegian Wood』をふと耳にして過去を回想する。死んだ友達とその彼女。彼女と再会してからの2年間を回顧し淡々と独白するお話」ということだけ書いときます。というか、そもそも村上春樹を語るときにあらすじって意味あるのかなと思います。笑

 

この小説が自伝小説風(自伝というのは本人に否定されています)で、ほかの小説とは少し作風が違う、という点はあったかもしれません。会話形式より地の文の心の中の語り、あるいは回想が長かったかもしれません。違いはあります。とにかく何かが私はなじまなかったのです。

 

そもそも、村上春樹の主人公に感情移入するのは難しい、と思います。ハードボイルドな洋書の翻訳とか洋画の吹き替えみたいな文章で、「やれやれ」とかつぶやく「僕」や「私」は何事かの事件に巻き込まれても超然と他人事みたいな感想を漏らします。常に客観的で感情が先走ることや感情に流されることもありません。でもいつのまにかぐいぐい惹きこまれて、気がつくともう「ムラカミハルキ語」で喋っている自分がいます。伝染性の強いムラカミハルキウイルスは、日常生活まで侵攻してきます。村上春樹を読んでいるとしばらくこういった症状に悩まされます。

 

『ノルウェイの森』は、誰に感情移入すればいいかわかりませんでした。しいて言えば、どっかに連れていかれて、置いてけぼりにされたみたいな感じ。それが初めて読んだときの感想でした。

 

死んだ友達とあなたは、そんなに友達だったの?三角関係の相手の女性を、あなたは好きだったの?人生をリセットするためのセラピーとして性交をするの?生まれ変わったからってほんとうに、そんなに熱烈な告白をするほど新しい恋人を求めているの?あなたの心は本当はどこにあるの?あなたはほかの人の死をそこまで悲しんでいるの?

 

悪いけど全然そんな風に思えないわ、と私は言った。「そうだろうね」と彼は言う。「きみがそう思うならそうなんだろう」。

 

若干ムラカミハルキウイルスに侵食された私の心の中の問いかけに、一時が万事、こんな調子で返ってくる感じ。笑。すんごくスカした感じに突き放してくるんですよね。まあちょっとイラッとしますわな。

 

しかしどうしたことでしょう。とりとめのない回想と性交の話で成り立っているこのディスコミュニケーションの話を、私は意外と覚えているんです、今でも。

 

今回、あらすじはネットで確かめましたが、あえて読み返しませんでした。読み返すと、それは50代として読むことになると思いました。この物語に出てくるのは私が読んだ当時くらいの20代の若い人たち。あるいは「成長を止めてしまった」アラフォー女性。若い時共感できなかった何かに、今読み返してみたら反応してしまうかもしれない。というよりも、主人公が10代から20代前半を回顧しているのは37歳。もっと超越した老人目線で「わかった」と理解した気になってしまうかもしれない。あのとき何がわからなくて何が気に入らなかったのかが、わからくなってしまうかもしれない。

 

とりあえず、読まないうちに「記憶」を頼りに書いておこう。と思いました。まあ、これがそういう「記憶」を探る本だから、ということもあります。

 

「認めたくないものだな、自分自身のわかさゆえの過ちと言うものを」

『ガンダム』のシャアがこのセリフをつぶやいたのは20歳の時です。彼は自分をものすごく突き放して見ていました。ちょっとサイコパスっぽい。離人症的といいますか。これ、本気でつぶやくならやっぱり40代以降にしてもらいたいものです。

 

でも、どうやらこれと同じような感覚が『ノルウェイの森』にはあった気がします。若いくせに「認めたくないものだな、自分自身の若さゆえの過ちを言うものを」と言ってるような小説。若さの痛々しさを当事者が他人事みたいに語る。

 

この小説に出て来る人は次々に自死します。その理由は示されないし、わからない。ただ残された人は傷つき、その傷を癒すすべがありません。主人公や登場人物たちは、悲しみや苦しみを直接的には表現しません。辛い、悲しい、寂しい、涙を流している、となればわかりやすいですが、そういう「言葉」「表現」を使わず、ノンバーバル(言葉に寄らない)表現において慰めを欲し、他人にもそう接します。主人公の「性交」はつまり、間接的な自己表現に他ならないのです。慰めですらない。そのことに、主人公は気がついていませんが、心の病を持つ年上の女性と出会って気づくんですね。一種、ミラーニューロン的に、相手を見て自分を知る感じだったのではないでしょうか。その女性はある意味リアルな女性ではなかったのだと思います。

 

私は若い頃、このことに気づいていませんでした。だからこのふたりが同衾するシーンは「は?なんで?」と思いました。もう置いてけぼり感半端なかったのです。この部分って必要?と思いました。その後村上作品をいくつか読むと、それがだんだん、わかってくるんですよね。これがいわゆるコミュニケーションとディスコミュニケーションがテーマのファンタジーだ、ということが。村上春樹独特の「象徴表現」というのがあって、わかりにくいんだけど、だんだん、わかってきた。『ノルウェイの森』のファンタジーはただそれが「わかりにくい」のです。

 

そんなわけで、私がこの本だけが「面白くない」と思った理由は私が「村上春樹の歩き方」において初心者だったからだと思います。読むときの年齢、年を取ったからわかるということもあるかもしれませんが、この本は実は「上級者向け」だったんです。いちばん最初に読むのは厳禁でした。おそらく、予想ですが、今この作品をよんだら、当時よりはもっといろんなことを理解しながら読めると思います。共感するかどうか、面白いかどうかはともかくとして、理解はできそうな気がします。

 

 

 さて、実はここまで下書きで書いて、最近、はてなブロガーさんの「チェコ好き」さんの有名な村上春樹論があるのを知りました。

aniram-czech.hatenablog.com

 

7年ほど前の記事ですが、なんとブックマークが535!すごい!さすが、プロのライターさんの記事です。

 

こちらを読んで、おお~、なるほど、と思いました。確かに、ファンと公言しづらいし、ハルキストに喧嘩売ってると思われたくない。笑。そんなつもりないですし。そして、さらに思いました。

 

私は、なんで「アンチ」にならなかったんだろう?

 

まあ、ハルキストにもならなかったけれども、『ノルウェイの森』でダメだったのならアンチに行ってもおかしくなかったわけです。もっと他のも読んでみようと思ったところが、境目でしょうか。『羊をめぐる冒険』でファンタジーとしての、シュルレアリスム的な村上春樹が、肌にあった、のかもしれません。

 

そしてまた、なぜ(私の中でハルキが)終わってしまったんだろう。

 

そこそこ好きなら、新刊が出ればあれほど話題になるのだし、エッセイも出るし、まあ多作とは言えないけれども、追いかけることが普通なのかもしれないのに。

 

『アンダーグラウンド』と、おそらくそのあたりの時期に知り合われたのであろう、河合隼雄さんとの絡み、だったと思うのです。私は故・河合隼雄先生を尊敬しているのですが、あのとき、私の中のムラカミハルキが解体されてしまったような気がしてならないのです。当時は作家村上春樹の転機だったと思います。米国から戻って、ディタッチメントからコミットメントにシフトし、あちこちで「コミットコミット」言ってた記憶があります。

 

最近、香港の活動家周庭さんが釈放されたときに、獄中で村上春樹を読んでいて、釈放後に村上春樹のイスラエルでのスピーチを引用して話題になりました。「その村上春樹さん」と、たぶん、私がかつてハマった「村上春樹作品」は、遠い気がします。そしてその理由を追求するのは、今ではない、とも思っています。