みらっちの読書ブログ

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迷わないネズミと迷える子羊【アルジャーノンに花束を/ダニエル・キイス】

こんにちは。

 

このところ、思い出すのはこの本。【アルジャーノンに花束を】。

 

 

今回、改めて調べて、1959年に中編として発表され、1966年に長編として発表されていたことを知りました。私はたしか大学生の頃に読んだ気がしますが、実はそのときは、こんなに古いSFだとは思いませんでした。新鮮な衝撃を受けたのを憶えています。1960年代のSFといえば、大掛かりなマシンがでてきたり、時間のパラドクスがあったり、宇宙船や宇宙人が出てきたりと「荒唐無稽で大袈裟な話」が多かったわけですが、そんな中「ひとりの人間が人為的な操作で変容する話」は珍しかったようです。いってみればジャンルを確立し、アメリカではいくつか賞も取っています。

 

沢山の二次創作物がありますが、いずれも観ていません。特に気に入った作品だったのに書籍を買うことはなく、手元にもありません。読んだのは上の表紙のものでした。読んだのがもう三十年も前なので、あらすじはうろ覚えでちょっと雑になります。

 

知的障害を持っていた男性チャーリィは、賢くなりたいという願いを持っていました。「アルジャーノン」というハツカネズミが手術によって高知能を得た実験結果をもとにした人体実験の被験者にならないかと言われ、手術を快諾します。徐々に知能が高くなり、最終的には高いIQを持つ天才になってしまうチャーリィ。急な変化に心とのバランスが取れずに苦しみ、そして高知能になったがゆえにそれまで知らなかった苦しみを知ることになります。大学に行き「アルジャーノン」を研究する研究者になり、恋も体験するチャーリィでしたが、ある時「アルジャーノン」に異変が起きます。

 

と、これ以上はネタバレになります。結末はブログの最後に書いておきます。おそらく今も版を重ねて出版されていると思いますので、未読の方はよかったらぜひ手に取ってみてください。ここまでの方は「最後のシーンが、とても強く印象に残ります。このタイトルの意味がわかります。」とだけ、言っておきますね。

  

作者のダニエル・キイス氏は2014年に86歳で亡くなっています。大学教授との二足の草鞋で、生涯に数えるほどしか作品を残していません。私は『五番目のサリー』や『24人のビリー・ミリガン』などで多重人格や解離性同一障害というものを知ったように思います。

 

おそらくは1980年代後半から1990年頃に読んだのですが、とにかく当時は「心理学ブーム」だったんですよね。ユング系の本が多数出ています。河合隼雄先生もこのころ本が立て続けに出版されていました。現在の「スピリチュアル本」と「メンタルケア本」に分かれる前夜、みたいな感じです。以前は今より「メンタルの問題」を自ら公表する時代ではありませんでした。それよりもどのように特殊な疾患があるか、などに物見高い興味が集まった時代だった気がします。

 

『羊たちの沈黙』のような精神科医でありながら猟奇殺人を繰り返す男や、それをモデルにした『踊る大捜査線』の小泉今日子の演じた犯人など、とにかく精神的に異常を抱えた犯人像みたいなものが多く、多重人格、サイコパスなどの書籍や映画が花盛りになりました。ダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』シリーズもそうでした。またそれに伴ってなのか「癒し」や「カウンセリング」などもいっきに一般化した時代です。「心理学」の中には精神疾患やケアを扱う本だけではなく、スピリチュアルも占いも宗教もいっしょくたになり玉石混交の時代だったとも言えます。

 

そんな1980年代の最後の年に、1960年代から名作SFとして地味にファンを獲得していた『アルジャーノンに花束を』が突如として300万部を超える大ベストセラーになりました。本屋さんに平積みで並ぶ本を憶えています。その時の分類はSFというより「心理学よりのライン」だった気がします。

 

その後、生物学的な「脳」の研究が進んだことで「心理学ブーム」は終焉し、ユングに代わってアドラーがもてはやされるようになりました。現在の精神医学的には、「心理学」として役立っていると言えるのは以前なら「地味」と言われていた認知行動療法くらいではないでしょうか。そもそも「心理学」が科学であるかどうかは長年議論され、現在はどちらかというと「心理学という分野があった」「哲学の流れに入れ込もう」という風潮になっている気がします。哲学の流れに組み込まれる場合はたいてい、フロイトが心理学の最大の貢献者であり最後の人となっています。

 

また、脳科学という分野が独り歩きを始めましたが、実は「脳科学」という分野はありません。心理学の研究者、行動学の研究者、生物学(脳)の研究者、神経内科の医者などがそれぞれ脳に注目して実験や分析を行うようになりその結果、ふつーの人にわかりやすいように「脳科学」などと大雑把に言っているだけ。そういう「脳科学もの」が爆発的に増えました。

 

現在も、そういった状況は続いていますが、今は多くの人が「うつ」「自閉症」「強迫症」「発達障害」「認知症」「高機能障害」などの疾患を知り、意識する時代です。テレビでもひっきりなしに特集しますし、そういう個別問題に対してケアする本や体験の本も多いですね。情報もかつてないほど多く、調べたり、専門科を探したりもできます。反面「メンタルヘルスに問題がある人」を「メンヘラ」と呼び、自ら主張したり、逆に差別したりということも起こっています。「コントロール本」も多いです。どうやったらうまくコミュニケーションをとれるか、相手を操作できるか、といったようなノウハウ系。間違った情報も氾濫している状況です。少なくとも細分化は進んだと言えると思います。さらにSNSの発達によって、新たな問題や疾患も増えていると思われます。

 

でも人の心が変わったわけではありません。みんな迷える子羊なのは、今も昔も変わりません。「アルジャーノンに花束を」はSFとしてではなく、心を支える本として、きっとこの先も読みつがれていくのではないかと思います。

 

 

★★★★★さて、以下ネタバレ。★★★★★★

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アルジャーノン」の異変は、実験の失敗を意味していました。徐々に知能が下がり、手術前の状態どころか、それ以下になってしまい、最終的には凶暴化して命を落とすアルジャーノン。その姿を見たチャーリィは、自分のこの先を悟ります。最初は何とかしようと頑張りますが、低下し始めていた知能ではそれもかなわず、いずれ来るさらなる知能低下を見据え、彼は自らもといた福祉施設へと帰っていきます。

 

途中から、そうなんだろうなぁ、と思うのです。でも、否定したい自分がいて、いやもしかしたら、と思って読むのですが、やはり…

 

チャーリーの時代は、精神疾患や知的に問題がある人への差別は今よりもっと酷かったですし、そういう表現も多々出てきていたと思います。この話は弱者を利用したとんでもない実験によって犠牲になった人の話、とも言えますが、私たちも、生まれてから徐々に学習を重ね、最後は認知が衰えて行きます。強弱や早い遅いはあるかもしれませんが、たいがいの人間はみなそうです。

 

チャーリーは極端な形で体験してしまいましたが、人間の一生は、チャーリーが猛スピードで体験したことと同じなんだな、と改めて感じています。わかっていた物事が、だんだんわからなくなっていくというのはとても恐ろしい、不安なものだと思います。チャーリーの場合は、人よりわかることが多くなっていた分だけ、その失墜する感覚はひとしおだったと思います。持っていたものを手放す、持っていたものを失うことは、辛いことです。彼は同時に、友人や恋人も失っています。彼の場合、老化ではなく人為だったのですから、誰かを責めても良かったのに、彼は誰も攻めませんでした。老いの先に、もしかしたらいずれくるかもしれないその時に、チャーリーのように運命を受け入れ、潔くいられるだろうか、と時折考えます。もう一度、読み返したい一冊です。