みらっちの読書ブログ

本や映画、音楽の話を心のおもむくままに。

文系と理系はもちつもたれつでいくのがよいかと【算法少女/遠藤寛子】

こんにちは。

 

12月はノーベル賞授与式の季節。今年はコロナの影響でオンラインだったそうですね。

 

近年の日本の科学者の悩みは、若手の研究者が育たないこと、というニュースを見ました。「ポスドク」と呼ばれる博士研究員は給料もなくバイトをする時間もなく、充分に研究に没頭できる環境が整っていないとのこと。日本人がノーベル賞を取った取らないで一喜一憂するのにそもそもそこを充実させないのはなぜかしら。不思議の国ニッポン。

 

「文系」「理系」という分類で、人間をたった二種類にぶった切る傾向がありますが、そうやって分類するなら私はあきらかにドップリ「文系」。そして今日はザックリ「理系」のお話です。おもに数学寄りで。

 

先月、Twitter「昨日数学の先生からいただいたメールに、『素数のようにもみえる20201111ですが、実は7の倍数です』という時効の挨拶が添えられていて風情があった」というtweetがバズっていました。理系の方は挨拶まで因数分解してしまうんだなぁ、と感心してしまいました。

 

私は算数も数学も苦手です。もちろん物理も苦手です。ずっと可能な限り避けて通ってきました。ところが全く理解できないにもかかわらず、数学や物理学の歴史にまつわる話や、学者や科学者の伝記は大好きです。彼らがなぜ、どんなふうに理系の世界に魅せられているか、ということに興味があります。特に「数学」や「物理」は、この世界の神羅万象を、言語によらない共通普遍のものである「数字」であらわし「真理」を見つけたいという情熱の結晶なわけです。ロマンです。ロマンは感じられるけれども、因数分解にときめいたりはしません。そこに文理の深い溝がありそうです。

 

ちなみにこんな絵本もオススメです。

自然の美が数によって構成されていることを見抜いたイタリアのフィボナッチの生涯を描いた本です。ただしこの絵本では、すでにインドで発見されていた数列を紹介したという話が端折られていて、いかにもフィボナッチが数列を発見したかの如く書いてあるので良書とはいえないというコメントがAmazonにありました。真実としては正しくないかもしれませんが、欧州ではその数列にフィボナッチの名前がついたのは事実です。子供に数学の面白さを伝える一端にはなる本だと思います。

 

フィボナッチ数列黄金比については面白すぎて字数的にヤバいので割愛。笑。

 

古代においてはバビロニアギリシャ、インドやアラビアが数学の中心でした。インド数学では紀元前9世紀ごろには円周率を小数点以下2桁まで計算していたとか。現在の文明が欧州中心のために名前が残っていない数学の大家が大勢いたはずです。ゼロを発見したのがインドなら、今現在私たちが使っている数字はアラビア数字です。これも元をただせばインドに起源をもつ十進法です。

 

というようなことを詳しく優しく教えてくれるのがこの本です。

[ミカエル・ロネー, 山本 知子, 川口 明百美]のぼくと数学の旅に出よう 真理を追い求めた1万年の物語

フランスの数学者ミカエル・ロネー氏はYouTubeでも番組があるのですが、こちらは「へー」くらいな感じ(笑)。ただ、とにかくどんなに数学が素敵かということについて熱弁をふるっている姿から「数学、大好きなのね」ということだけは伝わってきます。本は、途中難しいところもありましたが、 数学がどんなふうに生まれ、現在に続いているかと言う数学史の流れを知ることができました。

 

真理の追究は困難な道のりでもあります。天才が環境に恵まれなかったり、生涯心血を注いだ努力が報われなかったり、他人に理解されず疎外され孤独だったり。少なくとも歴史上、そうした辛酸をなめた数学者・科学者たちが沢山いました。今も、名もなき人の発見が私たちの世界を支えている科学技術の礎だったりすることはよくあります。

 

いつも面白い映画を教えてくれるNさんが最近見て面白かったよ!と教えてくれたのが『奇跡がくれた数式』という映画。インドの数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンラマヌジャンのことだけではなく数学者の人生の数奇さが書かれた以下の記事が面白かったので、よかったらぜひ読んでみてくださいね。私もこの映画、観てみたいです!

 

wired.jp

 

ラマヌジャンカーストも高位で欧州で名を知られるチャンスがありましたが(自ら掴んだチャンス)、残念ながら家は貧しく欧州の環境も合わなかったようです。若くして夭折してしまいました。ラマヌジャンのようにはチャンスに恵まれなかった、名もなき学者たちが報われなかったのは、身分が低かった!学校を出ていなかった!お金がなかった!支援者やスポンサーがいなかった!ひっくるめれば運がなかった!というようなことが原因なのかもしれませんが、人間の狭い心や派閥、無知や予断、偏見や差別のせいでもありそうです。

 

特に数学と言う分野ではノーベル賞もないですし(フィールズ賞はありますが)、「1995年、オックスフォードのワイルズ教授がフェルマーの定理を完全証明、360年の論争に決着」というようなハデな話題でもないとなかなか日が当たることが少ない気がします。

 

さて、今日の本は『算法少女/遠藤寛子

前回に引き続きまた江戸時代の話なのは単なる偶然です。笑。

算法少女

1974年にサンケイ児童出版文化賞を受賞しますが、その後絶版に。数学を教える人や様々な分野の人々の熱烈な重版希望にも関わらず絶版のままでしたが、2006年に30年ぶりに復刻され、その後2015年にアニメ化もされているそうです。2018年には日本数学会出版賞を受賞しています。30年の空白期間を超えて今の時代に復活してなおかつ評価を得ているというのは珍しい本だと思います。

 

あらすじは、2018年の日本数学会出版賞の受賞の理由から引用します。

 

遠藤寛子氏「算法少女」(ちくま学芸文庫筑摩書房,2006年/初版は岩崎書店,1973年)

安永四年に刊行された和算書「算法少女」の成立をめぐる史実を下敷きにして,千葉あきという13歳の少女を主人公に,江戸時代において和算がいかに庶民のあいだに広まっていたかを生き生きと描き出した少年少女向けの歴史小説である.本書は,和算のみならず学問の魅力が一般向けに描かれていること,和算の雰囲気をなるべく正確に伝えていること,本書を原作とした漫画・アニメーション作品も発表されていることから,誰にでも楽しめる数学啓蒙書であり,本賞に相応しいものである.

 

原本の江戸時代の和算書『算法少女』は国立国会図書館にのみある稀覯本(きこうぼん)です。作者の遠藤さんは子供の頃数学の研究が趣味だったお父さんから教えてもらった『算法少女』のことが心のどこかに常に引っかかっていたそうですが、名もなき町医者(今では町医者が千葉桃三という名前だったことはわかっているそうです)とその娘が記した和算の本に縁を感じ、二組の父と娘の物語を重ねてこの本を書いたとのことです。

 

少年少女向けの歴史小説、ということで、確かに歴史小説として安永4年の江戸の雰囲気も存分に味わえますが、実在の人物と作者が創作した人物がうまいぐあいに関わりあい、なかなかスリリングなミステリーとしても楽しめます。わかりやすくやさしい語り口で、児童書だから、子供向けだから、という目を取り払ってぜひ楽しんで欲しい一冊です。数学の本としても、歴史的な流れや理論について取り混ぜながら、子供にもわかりやすく解説してあります。

 

あきは町の人々の要望に応える形で和算塾を開くのですが、習いに来た子供たちに自分で作った問題を出します。例えばこんな問題。

 

「ある長者が下男になんでも望むものを申せといった。そこで下男は、米一つぶを、ついたちからみそかまで、まい日まい日一倍(二倍)にしてくださいといった。これをきいた長者はおおいにわらった」

 

元ネタは秀吉の御伽衆で落語家の始祖と呼ばれる曽呂利新左衛門頓智だと思われます。この問題を解いていた子は「ほんとに、ずいぶん欲のない下男だね」と言うのですが、これには思わず笑ってしまいました。その子はもちろん後で大変なことに気づきます。これに類するお話は世界中にあり、元をたどればまたインド。倍々ゲーム、2の冪(べき)、2の累乗数の問題です。ドラえもんバイバインですね。

 

和算と言えば「関孝和」が有名です。私が面白いなと思ったのは、関孝和が1700年頃に死去した後、「関流」と言われる「和算」は目覚ましく発展し、『算法少女』の安永の時代(約80年後くらい)には関孝和は「算聖」とあがめられ「関流」は我らこそが高尚な学問の主流であるという観念に凝り固まってしまって、新しい芽をどんどん摘んでしまう存在になってしまっていたということです。この本では、日本の「和算」がかなり精度の高い数学だったにもかかわらず、世界と比肩するほどのものになれず逆に取り残される形で終わってしまったのは、鎖国もさることながら、「〇〇流」「〇〇派」となってしまったグルーピング、ラベリングの結果、関孝和を教祖のように崇めるだけの発展性のない学問になってしまったことに原因があると言っています。こういうことは学問だけでなく、「道」と名の付くものや、宗教、政治などにもいかにもありそうなことです。人間が集団をつくると陥りがちなことかもしれません。最初に提唱した人や案はよかったのに、それを引き継ぐとあっという間に分裂、仲間内で閉鎖的になっていくのはよくある話。

 

主人公「あき」も、町人出身で上方(大阪)の流れをくむ算術を習った年若い女子ということで「武家」や「関流」からの差別や大人げない意地悪(にしか思えない)に阻まれたり、またこの当時盛んだった「一揆」の影響を受けたりと、思いがけない人間関係や時代背景に翻弄されつつも、十三歳ながら自立した女性として描かれています。周囲の人々の人情の温かさもさることながら、あきの決断や生き方は爽快です。

 

たまたま父親の友人が有名な俳人(谷素外)だったことで和算書を出すことになる経緯も面白かったです。その経緯には創作も入っていたと思いますが、谷素外は実際に原本の『算法少女』にあとがきをよせています。やっぱりこの世に文系の人がいないと、こうして『算法少女』の存在を私たちが知ることにはならなかったわけで、理系だけでもダメ、文系だけでもダメ、の、もちつもたれつなのが世の中なんだなあと(笑)、ちょっとほっとしたりして。和算を趣味で楽しむ父とは違って現実的な生き方を選ぶ「あき」に、少年少女ならずともいつのまにか共感してしまうこと請け合い。数学に興味のある人にもない人にもおすすめの一冊です。