みらっちの読書ブログ

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実録と創作どちらも怖い 後編【羆嵐/吉村昭】

前編からの続きです。

 

miracchi.hatenablog.com

木村さんのノンフィクションから触発されて作家・吉村昭さんが執筆したのが『羆嵐(くまあらし)』(単行本初版は昭和52年、文庫版の初版は昭和57年)です。作品の最後に、著者が木村さんの著書を参考に、木村さんご本人から教示いただいたという謝辞が載っています。

 

ふたつの本に出てくる巨大な羆はもう、凶悪としか表現のしようのない羆です。冬眠に失敗した熊を「穴持たず」というそうですが、凶暴性が強くなるそうで、身体のサイズが大きくなりすぎてちょうどいい穴を見つけられなかったり、思うように冬眠前に食事をとれずタイミングを失ってしまってそうなる熊もいるとか。活動が活発な春から夏の熊もそれはそれで怖いですが、冬の「穴持たず」は特に怖いらしいですね。とにかく力が強く、手を動かしただけで人間の首なんて簡単に飛ぶそうです。また、雑食で消化が早く、すぐ空腹になってしまうため、満腹になると狩りをしないライオンなどとは違うらしいです。

 

獲物は取っておいて何日かかけて食べるそうで、獲物に対する執着は強く、このふたつの本でも出てくる印象的な場面ですが、羆に襲われて通夜をしているところに獲物(遺体)を取り返しに襲ってきた場面があります。人間を襲う羆は、最初に食べた獲物に近いものに執着し、同じものを物色するそうです。自分を狙ってくる人間に対しては、足跡をたどって後戻りして人間を騙し、足跡の途切れたところまで進んだ人間を後ろから襲うとか。強いうえに頭がいいときた。最強のゆえんかと思います。火なんか全然怖がらないし、むしろ「灯りがついてる。人がいる」と判断するというし、「死んだふり」なんてしても羆がお腹がすいていないとき以外助かる道はないようです。せいぜい「クマよけ鈴」などを鳴らして山道を歩いて、互いに接触しないように気を付けるのが精いっぱいの防御法だとのこと。それも羆がお腹がすいていないときだけの話。

 

両方の本を読んで、木村さんのノンフィクションは、ご本人の体験や事実を聞き書きしたものなのですが木村さんの感情が伝わってくる筆致で、吉村昭氏の小説は、フィクションなのですが淡々と抑えた筆致で、ちょっと逆転した感じを受けました。ドキュメンタリー風なのでついノンフィクションと同じ感覚を期待しがちですが、あくまでも小説。

 

吉村氏は『羆嵐』を一度書いて寝かせ、そして1年後に書き直し、さらにもう1年寝かせて書き直したそうです。また『羆嵐』のほうのあとがきは『北の国から』の倉本聰氏で、倉本氏が北海道富良野の小屋に移住した日に手違いで電気が引かれず闇の一夜を過ごしたときにこの『羆嵐』を思い出してしまって眠れぬ一夜を過ごした、ということが書いてあります。そりゃあ怖かっただろうと思われます。

 

吉村昭さんは好きな作家さんのひとりなのですが、事実に創作や想像を混ぜ込んだというようなものではなく、むしろフィクションこそがリアルに感じられるような作品に仕上がる、というのは職人技だと思います。ついグロテスクな描写にばかり目が行きがちですが、問題の凶悪な羆を打倒した銀四郎という猟師を椋鳩十『大造じいさんとガン』を思い出すような一徹な猟師に設定したこと(銀四郎のモデルは「宗谷のサバサキの兄」と呼ばれた山本平吉さんという実在の人ですが銀四郎は吉村氏によって個性的なキャラクターとして創作されています)や、なにより「雪」の効果的な使い方がすごい、と思いました。

 

真っ白な雪に朱赤の血痕、と言うシーンにまずはっとさせられますが、雪は小説のところどころで視覚的に重要なアイテムとして使われます。巨大な羆の足跡、引きずった痕跡。様々なものが入った恐ろしい糞を覆い隠す場面では時間の経過が示唆されます。逃げ惑う人にまとわりつき、検視した医師の手を洗い、恐怖に喉を涸らした人の喉を潤し、羆の巨体を運ぶときにはそりの下に敷かれる雪。そして何と言ってもタイトルの羆嵐。白い雪と血や闇とのコントラストの描写がすごく鮮烈です。

 

小説の中心になるのは三毛別の区長なのですが、自身も間近で熊が人間を捕食する音を聞いているだけに、実際に事件を肌で体験した人と、話に聞いただけの人との温度差を感じてジレンマを抱きます。他の集落の人が集まり警察が来てこれで退治できると喜んだのもつかの間、みんな現実を知らず銃と人海戦術でなんとかなると思っていて、実際は手をこまねいているだけ。羆の恐怖は味わった人にしか真実はわからない、羆を退治できるとするなら羆のことを熟知したプロにしかできない、と思うに至って、区長は全財産を出して評判は悪いが腕がたつ「またぎ」の銀四郎を呼び寄せるのです。読者もその時点で、実際に事件を「疑似体験」した側に入っていて、その「体験者」と「それ以外」の感覚の違いにやきもきし、「みんな知らないからわかんないんだよー、はやくプロの猟師を呼んだ方がいい!」という気分にさせられます。で、災害時に、役に立たない烏合の衆が何十人何百人いても、ひとりのプロにはかなわない、という話になっていくのです。

 

実際、ノンフィクションのほうでも結果的にはそういう結末なのですが、ノンフィクションのほうではひとりの猟師だけに焦点があたることはなかったし、ほかの人が役に立たないとかその技量が恐ろしく違う、みたいなことはなかったみたいです。このあたりが、クライマックスやカタルシスを必要とする創作との違いかなと思います。

 

うっかり忘れそうになっていますが現代も大自然と縁が切れたわけではないし、むしろ縁が切れたような暮らしに安穏としているのは危険ですらあります。最近は野生動物が人里に出没することが増えていますし、豚熱や鳥フルは野生動物と家畜の接触によって発生し、現在も西日本で広がる鳥フルの影響で、生まれて一度も太陽をみたことのない家畜のニワトリが大量殺処分されています。そして極めつけはコロナですね。コロナもまた野生動物からやってきたウイルスです。直接的に人体を餌として食い散らかす羆と、目に見えないウイルスのどっちが怖いかといったら違う意味でどちらも怖いんですよね。そして被害が拡大するのはいつも、人間の無知と油断からです。そんなことを考えさせられた二冊の本でした。